「あなたと、ロシアに行けと?」
『そうだよ。子どもの事は心配しなくていい。もうあの男の事は忘れてしまえ、チヒロ。』
「そんな事・・」
出来ない、と千尋が言おうとした時、外で馬の嘶きが聞こえたかと思うと、ドアが乱暴に開いて理哉が病院の中へ入って来た。
「やっぱりここに居たんだね、千尋さん!」
「桐生様、どうしてここが?」
「土方さんに、君の事を話したよ。今こっちに向かってる。」
「今更話すことなどありません。」
千尋はそう言うと、アンドレイの手を握った。
「どうして、いつも君は逃げてばかりいるんだ!? 何故土方さんと面と向かい合って話そうとしないんだ!」
「赤の他人のあなたに、わたくしの何が解るというんです!? もうわたくしには関わらないでください!」
千尋の怒鳴り声で、看護師や患者が何事かと彼らを一斉に見た。
「君の事は放っておけないんだよ、僕は! 君は僕の妹のようなものだから!」
理哉はそう叫ぶなり、千尋の手を握った。
「早くここを出よう、土方さんが待ってる!」
「嫌、離してください!」
『やめろ、妹に触れるな!』
アンドレイが理哉と千尋との間に割って入り、理哉を睨みつけた。
『これは僕達家族の問題だ、他人の君が口を挟まないでくれ。』
『そりゃぁ血は繋がってないけど、僕にとって千尋さんは妹のようなものなんだよ。彼女を何処に連れて行くのかは知らないけれど、その汚い手を離せよ。』
『黙れ、離すのは貴様だろう!』
アンドレイと理哉が睨み合っていると、大鳥が院長室から出てきた。
「一体何の騒ぎだい、これは?」
「大鳥先生、早く手術をしてください。もう覚悟はできております。」
千尋は言い争いを始めているアンドレイと理哉から離れると、そう言って大鳥に頭を下げた。
「本当に、いいのかい?」
「はい。こうするしか、ないんです。」
大鳥に連れられて千尋は手術室へと入った。
「そこに横になって。」
「はい。」
手術台に横たわった千尋は、静かに目を閉じた。
これで全てが終わる。
目を開けた千尋が最初に見たものは、病室の白い天井だった。
「気が付いたかい、千尋君?」
「先生、手術は・・」
「無事に終わったよ。千尋君、君はこれからどうするつもりなの?」
「そうですか・・ありがとうございます。」
千尋はそう言って俯くと、大鳥は黙って病室から出て行った。
そっと彼女は下腹を擦ったが、かつて己の子宮に宿っていた命はない。
これでいいのだ。
頭でそう割り切ろうとしたが、胸に冷たい風が絶え間なく吹いているように感じて、千尋は自然と涙を流していた。
自分は人殺しだ。
(神様、わたくしをお許しください。わたくしは命の芽を摘み取ってしまいました・・)
『チヒロ・・』
病室のドアが開き、アンドレイがドアの隙間から顔を覗かせた。
「これで良かったんですよね?」
千尋がそう言ってアンドレイに微笑んだが、すぐにその笑顔は崩れてしまった。
『もうあの男の事は忘れて、一からやり直すんだ。』
「はい・・」
(もう旦那様の元には戻れない・・)
千尋は辛い決断をしました。
次回、第二章最終回です。
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