『今日はお招きいただき、ありがとうございました。』
バレエの公演を鑑賞した後、千尋はドミトリィに連れられて彼が行きつけのレストランで食事をしていた。
『いいえ。それよりもチヒロさん、恋人は居ますか?』
一瞬土方の笑顔が千尋の脳裡に浮かんだが、彼女は慌ててそれを振り払った。
『いいえ、おりません。ドミトリィさんは?』
『恥ずかしながら・・今まで音楽一筋で生きて来ましたから、恋愛の事はさっぱりで。』
『まぁ、嘘もお上手なのね。』
千尋はそう言って笑いながらドミトリィを見ると、彼は照れ臭そうな顔をした。
『今年の夏は、どちらへ旅行するんですか?』
『何処にも行きませんわ。行くとしたら、せいぜい遠乗りぐらいです。ドミトリィさんは?』
『暫く大きなコンサートは控えていないので、実家に帰ってゆっくりします。』
それから千尋とドミトリィは取り留めのない話をして、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
『今夜は楽しかったです。』
『さようなら。』
ドミトリィと別れ際にキスをした千尋は、邸の中へと入った。
『チヒロ、ドミトリィとデートをしたのかい?』
『ええ奥様、バレエの後は食事をしましたわ。』
エカテリーナの部屋に入り、千尋がそう言って腰を下ろすと、彼女はじっと千尋を見た。
『何ですか?』
『あたしの事を“奥様”と呼ぶのはやめておくれ。まがりなりにもあたしはお前の祖母なのだからね。』
『では“お祖母様”とこれからはお呼びいたしますわ。』
『それでいいのさ。それよりもチヒロ、今年の夏はコモ湖へと足を伸ばしてみようと思ってね。お前も来るといい。』
コモ湖は、イタリア北部にある湖で、欧州の各国王室や貴族の保養地として人気の場所であることを、千尋は知っていた。
『ええ、是非。でもあの人は反対なさらないかしら?』
『オリガの事は放っておきな。アリョーシャは友人とハバロフスクに行くそうだ。だから心配要らないよ。』
『そうですか・・』
休暇先でもあの2人と顔を合わせなければならないのかと思うと千尋は憂鬱だったが、初めての海外旅行に彼女は胸を弾ませた。
数週間後、千尋は父・ミハイロフと、祖母・エカテリーナ、長兄・アンドレイとともにイタリアへと旅立った。
『ロシアの外に出るのは初めてだろう?』
『ええ。』
イタリア・ミラノ行きの汽車に乗った千尋は、そう言いながら一等車両の窓から異国の風景を眺めていた。
『ミハイロフ、あの子は色々と辛い目に遭ってきた子だ。あたし達が守らないとね。』
『はい、母上。』
『アンドレイ、お前も妹をしっかり守るんだよ。』
『はい、お祖母様。』
コモ湖のホテルへと着いた千尋は、子どものようにはしゃぎながら窓から見える雄大な湖を眺めた。
『そんなに窓から身を乗り出すんじゃないよ、チヒロ。テラスがあるんだから。』
『すいません。』
ぺろりと舌を出した彼女は、そう言ってエカテリーナに頭を下げた。
初めての家族旅行を、千尋は満喫してサンクトペテルブルクへと帰った。
そんな彼女に縁談が持ち込まれたのは、数日後の事だった。
『お相手はアドリアン=アダモフ海軍将校様よ。是非あなたにお会いしたいのですって。』
そう言ったオリガは、心なしか厄介者をこの家から追い出すことができるという嬉しさを顔に出していた。
『一度だけ、お会いいたします。』
余り乗り気でない千尋だったが、結局オリガに押し切られる形となり、ボンネル子爵家の舞踏会へ出席することになった。
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