何者かが放った矢でアンジェリカの馬が興奮して暴れ、彼女は落馬したが、大した怪我ではなかった。
「良かったわ、軽いかすり傷でお済みになって。」
「ええ、本当に。」
アンジェリカ付の女官達はそう言うと、いちように安堵の表情を浮かべた。
「まぁあなた方、何をおっしゃるの!もし打ちどころが悪かったら、皇妃様はお亡くなりになられたのかもしれませんのよ!」
アグネタは、そう言って聖良を睨んだ。
「お前、わたしの所為で母上が怪我をしたとでも言いたいのか?」
「そんなことは・・」
「わたしが、母上を殺したいとでも思っていると考えているようだな、お前は。だがあれは突然起きたことだ。もし母上が一人で先に森を散策していたら、無事では済まなかっただろうよ。」
聖良はそう言っている間、アグネタをじっと見据えていた。
「もういいでしょう、セーラ。アグネタ、わたくしは大丈夫なのだからセーラを責めないで。」
「申し訳ありません、皇妃様。わたくしはこれで。」
アグネタはそそくさと部屋から出て行った。
「ふん、気に入らない女だ。家名の威光の陰で尊大な態度を取っている臆病者が。」
「セーラ、ごめんなさいね。わたくしの所為であなたにまた辛い思いをさせてしまったわね。」
アンジェリカはそう言うと、そっと聖良の手を握った。
「では母上、俺はもう行きませんと。」
「待って頂戴、セーラ。あなたに渡したいものがあるのよ。」
アンジェリカが寝台から降り、宝石箱の蓋を開け、一個の指輪を取り出した。
それは、周りにダイヤが鏤められた、ルビーの指輪だった。
「これは?」
「この指輪はわたくしの祖母の代から伝わる指輪なの。あなたに、この指輪を贈るわ。」
「そんな・・いただけません。」
アンジェリカに指輪を返そうとした聖良だったが、彼女は聖良の指にそれを嵌めた。
「あなたに持っていて欲しいのよ。わたくし達のことを思い出せないと聞いて、はじめはショックだったけれど、こうしてあなたに会って話しているだけでも幸せなの。記憶は、少しずつ取り戻せばいいわ。」
「母上・・」
自分を見つめるアンジェリカの瞳は、澄んだ蒼だった。
その澄んだ瞳と目が合った時、自分が記憶を失くしてもいなくても、彼女は自分の子として聖良を受け入れてくれるだろうと思った。
「ええ、母上。ありがとうございます。」
「決して失くさないようにね。」
アンジェリカの部屋から出た聖良が廊下を歩いていると、ディミトリとフリードリヒが何かを話している姿を庭園で見た。
さっと柱の陰に身を隠し、聖良が二人の傍に近寄ると、話の内容は解らないものの、フリードリヒはどこか興奮した様子だった。
「・・ではフリードリヒ様、わたくしはこれで。」
「じゃぁね、ディミトリ。」
フリードリヒと別れたディミトリは庭園を後にし、宿舎へと戻っていった。
二人が話していると、何か悪だくみをしているのではないかと聖良は思ってしまう。
「セーラ様、どうなさいましたか?」
「リヒャルト、急に背後に立つな。いつ戻って来たんだ?」
聖良が背後を振り返ると、そこには遠征に向かった筈のリヒャルトが立っていた。
「先ほど、戻りました。セーラ様、その指輪は皇妃様の?」
「ああ、これは母上から譲り受けた。それよりもリヒャルト、報告したい事がある。来い。」
「御意。」
リヒャルトは真顔でそう言うと、聖良の後を続いた。
「それで、お話とは?」
「母上が鹿狩りの際、何者かに矢を放たれた。犯人はまだ見つかっていない。」
聖良の言葉に、リヒャルトは息を呑んだ。
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