「おかあさん、もしかしてうちらが話している時、誰かが盗み聞きしてたんと違いますやろか?」
「それはないわ。あの夜ここに居たんは文菊(ふみきく)ちゃんだけやで。それにあの子は、人の話を盗み聞きするような子やない。」
「そうどすなぁ。」
だとしたら雪乃に椰娜(ユナ)のロシア行きの話を喋ったのは誰なのか―置屋の中に犯人が居ないとわかり、椰娜は首を傾げた。
「それよりもおかあさん、雪乃さん姉さんが、うちのこと“掟破りの子”やと言うてはりました・・」
「そんなん、気にせんでよろし。雪乃はなぁ、あんたが来る前は宮川町のみならず、都の名妓と呼ばれた時期があってなぁ。男爵様や子爵様がこぞって宝石やら毛皮やら、高価なプレゼントを抱えてあの子に求婚しに来たことがあったんやで。」
「へぇ、そないなことがあったんどすか。」
雪乃のことは良く知らなかったが、宮川町の中で売れっこ芸妓は彼女であるとう噂を、椰娜は何処かで耳にしたような気がした。
「けどなぁ、あの子が売れたんはもう随分昔の事や。あの子が舞妓から芸妓に衿替えしてから、あの子は金遣いが荒くなって、賭博にも手を出すようになったんや。」
「そんで、今は・・」
「もう博打はやってへんとか言うてるけど、あやしいもんやわ。未だに竜生会の者と手ぇ切れてへんっていうのがもっぱらの噂や。」
志乃が吐き捨てるように言った“竜生会”というのは、余り花街の住人達にとって有り難くない存在らしい。
「おかあさん、竜生会ってなんどすか?」
「ああ、あんたはよう知らんかったな。竜生会っちゅうのは、関西に拠点を置いてるヤクザ者や。」
志乃は顔をしかめてそう言った後、恐怖で身体を震わせた。
「あいつらは賭博だけでなく、金融業もしてるそうや。何でも雪乃は賭博でこさえた莫大な借金を、置屋のおかあさんに内緒で竜生会に肩代わりさせて貰ってるらしいわ。あんまり近寄らん方がええ連中や。」
「そうどすか。」
雪乃に関する黒い噂を聞いた椰娜は、彼女の悪意に満ちた顔が脳裏に浮かんできて悪寒が走った。
「おおい、誰か居るか!?」
不意に玄関先から野太い男の声がしたので、志乃が弾かれるようにして部屋から出て行った。
「吉田様、お久しぶりどすなぁ。」
「ゆなは居るか?」
「へぇ、ここに。」
慌てて志乃の隣に来た椰娜に向かって、吉田は優しく微笑んだ。
「お前に土産を持って来た、受け取れ。」
そう言って彼が椰娜に手渡したのは、銀座の有名宝飾店のロゴが入った紙袋やった。
「これは何どすか?」
「開けてみろ。」
「へぇ・・」
恐る恐る椰娜が紙袋の中から包装紙に包まれた箱を取り出して包装紙を剥がすと、中からビロードの箱が出てきた。
椰娜が箱を開くと、そこには桃の種ほどの大きさをしたサファイアの指輪が入っていた。
「これ、ほんまにうちが貰うてもよろしいんどすか?」
「お前への土産だと言っただろう?遠慮なく受け取れ。」
「おおきに。」
「嵌めてみろ。お前の指のサイズに合っている筈だ。」
吉田はそう言うと玄関先で跪くと、椰娜の手を掴んでサファイアの指輪を嵌めてくれた。
指輪は、椰娜の左手の薬指にピッタリと合っていた。
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Last updated
2013.09.04 09:30:28
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