「はい。でもわたしが呼びかけたら、逃げるように去っていってしまったんです。」
「そうか・・それにしても、ロンドンに居る筈の涼介が何故ウィーンに居るんだ?」
「それはわたしも解りません。でも、遠目から見た限り兄上はお元気そうでした。」
環はそう言うと、懐剣を握り締めた。
「その懐剣は?」
「先ほど、アンナ先生が兄から預かった物だそうです。わたしに渡してくれと・・師匠、一体兄は何を考えているのでしょうか?」
「落ち着きなさい、環。」
「ですが・・」
環がそう言って尚も優駿に言い募ろうとしていた時、突然息が苦しくなった。
「どうした、環?」
「息が、突然苦しくなって・・」
「ソファに横になりなさい。きっと興奮して身体に負担がかかってしまったんだろう。」
「申し訳、ありません・・」
「謝るな。お前は昔から興奮すると喘息の発作を起こしていたからな。涼介とわたしは、お前が熱を出すと、一晩中看病をしたこともあった。」
「そんなことがあったのですね。わたしは何も憶えていません・・故郷の事も、故郷の言葉も、あの戦の記憶も全て忘れてしまいました。」
「辛いことは思い出さないほうがいいものだ。思い出せば出すほど、悲しみに胸を焦がしてしまう。」
優駿は環に向かってそう言うと、そっと彼の額を撫でた。
「少し眠りなさい。」
「はい・・」
自分の膝の上で安らかな寝息を立てている環の髪を優駿が撫でていると、ルドルフが部屋に入って来た。
『貴様、どういうつもりだ?』
『静かにしてください、環が起きてしまいます。』
そう言った優駿の顔からは、笑みが消えていた。
『一体何があった?』
『先ほど環が、涼介に会ったそうです。』
『リョースケというのは、タマキの兄だな?』
『ええ。環が声を掛けた時、涼介と思しき男はそのまま逃げて行ってしまったそうです。その話を環から聞いて、わたしは解せないのです。ロンドンに居る筈の涼介が、何故ウィーンに居るのか。それに、弟との再会を嬉しがる筈の涼介が、何故環に声を掛けられただけで逃げてしまったのか。もしかしたら、環が会った男は涼介に成り済ました偽者なのかもしれません。』
『偽者、か・・考えられるな。だが、東洋人の学生にそう簡単に成り済ませる者が居るのか?』
『英国にはわたし達の同胞が星の数ほど留学しているという噂を聞きます。しかし、その中から涼介と極親しい人間となるとその数は限られますね。』
『そうだな・・ロンドンの日本大使館に一度手紙でリョースケの事を問い合わせてみるか。』
『ルドルフ様、わたしはあなたと環の関係に口出しするつもりはありません。ですが、環はわたしにとって実の弟同然の存在です。環は今まで、涼介を見つけ出して共に日本へ帰国する日が来ることを願って旅をしてきました。しかし、その希望が打ち砕かれた時、環がどんな思いをするのか・・』
『ユーシュン、あなたの言いたいことは解った。タマキには何も心配するなと伝えておいてくれ。』
『解りました。』
ルドルフが優駿の方を見ると、彼は膝の上で眠っている環を慈愛に満ちた目で見つめていた。
それは、母親が我が子を見つめる目に似ていた。
『ユーシュン、あなたにとってタマキは特別な存在なのだな?』
『ええ。』
『リョースケの情報が入り次第、あなたに伝えよう。』
ルドルフが優駿の部屋から出て行った後、彼の膝の上で眠っていた環が低く呻いて目を開けた。
「少しは落ち着いたか、環?」
「はい。」
「そうか、良かった。」
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