「お帰り、環ちゃん。」
「姐さん、師匠は?」
「優駿さんなら、ホテルに泊まると言って、さっきここから出て行ったよ。」
「そうですか。」
環はそう言って溜息を吐くと、椅子の上に腰を下ろした。
「どうしたんだい、溜息なんか吐いて?」
「姐さん、昼間師匠・・優駿さんとカフェの前で別れて町を歩いていたら、ハインツ様にお会いしました。」
「ハインツって、あんたがフロイデナウ競馬場で会った英国貴族の坊ちゃんかい?」
「ええ。わたしはハインツ様に夕食へ招待されて、そこで兄上と会ったのです。兄上は、ハインツ様と恋人同士で、もう日本へ戻るつもりはないと言いました。」
「そう。」
小春は、環の肩が微かに震えていることに気づいた。
「落ち込んでいる時は、ちゃんと落ち込んだ方がいいよ。そうしないと、心が壊れちまう。」
「姐さん、少し部屋で休んできます。」
環は小春にそう言ってダイニングルームから出て、自分の部屋に入った。
机の前に座り、環はインク壜の先を羽根ペンに浸すと、羊皮紙の上に両親への手紙を認めた。
“父上、母上、長らく文を出せずに居て申し訳ありませんでした。
昨夜、兄上にお会いしました。
兄上は事情があり、もう日本へは帰国されないと、わたしに話してくださいました。
それではお元気で 環“
『タマキ様、何かご用でしょうか?』
『この手紙をウィーン中央郵便局へ届けて頂戴。』
『かしこまりました。』
メイドが両親宛ての手紙を郵便局へと出しに行く途中、彼女は新聞記者と路上で会った。
『確か君は、向こうのお屋敷で働いている子だよね?』
初対面だというのに、そう馴れ馴れしく自分に話しかけて来る新聞記者を警戒したメイドは、バッグをきつく握り締めた。
『申し訳ありませんが、急用がありますので・・』
『そんなに冷たくしないでさ、少し君の雇い主のことを話してくれるだけでも・・』
『誰か助けて、この人痴漢です!』
メイドが声を張り上げると、通りを挟んだカフェでコーヒーを飲んでいた屈強な労働者風の男達が数人、新聞記者の方へと歩いて来た。
『君達、何をするんだ、離せ!』
背後から新聞記者の悲鳴が聞こえたが、メイドはそれを無視して中央郵便局の中へと入った。
『ただいま戻りました。』
『こんな夜遅くに手紙を出してくれて、有難う。』
『いいえ。郵便局へ向かう途中で新聞記者に絡まれてしまいましたが、大丈夫でした。』
『そう。新聞記者の方達はしつこいわね。』
環がそう言って溜息を吐くと、メイドも彼の意見に同意するかのように静かに頷いた。
『あなたはもう帰ってもいいわよ。』
『では、失礼いたします。』
屋敷の裏口から外へと出て行ったメイドは、自宅へと向かう途中、誰かが自分の後をつけていることに気づいた。
早足で彼女が自宅へたどり着き、ドアの中に滑り込んで内側から鍵を掛けると、外から何者かがドアを蹴る音が聞こえた。
恐怖で彼女は両手で耳を塞ぎ、床に暫く座り込んでいると、靴音がドアから遠ざかっていく気配がした。
『エレナ、どうしたの?』
廊下の奥から夜着姿の母が自分の方へと駆けてくるのを見た時、メイド―エレナは安堵の涙を母の胸に顔を埋めて流した。
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