フランス語圏のベルギーからやって来たシュティファニーは、ドイツ語圏のウィーンに嫁いで間もなくドイツ語をマスターし、朝晩の礼拝にも毎日欠かさず出席し、公務を真面目にこなしていたので、舅(しゅうと)である皇帝に気に入られた。
しかし、姑に当たるエリザベート皇妃からは、彼女の自作の詩で「力持ちの田舎娘」、「ふたこぶラクダ」と、その容姿を揶揄され、自分の公務を彼女に押し付けるようになった。
義理の母娘の間に深い溝が生まれるようになり、それはエリザベートがレマン湖で無政府主義者の手によって暗殺されるまで埋まる事がなかった。
彼女の夫であるルドルフは、自分が行きつけにしている酒場へ彼女と変装して連れて行ったが、宮廷で贅沢な暮らしをしていた彼女にとっては、ルドルフのお気に入りの酒場は、卑しい身分の者が集まる汚らわしい場所であると認識してしまった。
彼女は、叔母のシャルロッテ同様、ベルギー王家の出身であることに誇りを持っており、平民と混じって酒場やカフェで飲み騒ぐ同じ王族出身のルドルフに理解を示さなかった。
ルドルフは新妻を大切にしようと色々な努力をしたが、結局無駄に終わった。
潔癖なシュティファニーは、やがてルドルフの女性関係についても口出しするようになった。
『貴方、この手紙は何ですの?』
『シュティファニー、それはお前には関係のないものだ。それを返せ。』
『いいえ、関係ありますわ!貴方はわたくしの妻ですもの、夫宛ての貴方の手紙を見て当然でしょう?』
シュティファニーはそう言うと、ルドルフの承諾なしに手紙の封を切り、その中身を見た。
『貴方って人は、わたくしという妻がありながら、こんな汚らわしい女と情熱的な文通を為さっていたなんて、信じられないわ!』
怒り狂ったシュティファニーは、千切った便箋をルドルフに投げつけると、ヒステリックに叫んだ。
ルドルフはそんな妻に背を向けると、脱いだばかりの外套を再び羽織って彼女の部屋から出て行こうとした。
『貴方、またあのタマキとかいう女官の所ですの?』
『ああ。タマキは少なくともお前よりも寛容で、わたしのプライバシーを勝手に侵害したりはしない。』
ルドルフは自分の腕を掴んでいるシュティファニーの手を乱暴に振り払うと、そのまま彼女の部屋から出て行った。
背後で何かが割れるような音がしたが、ルドルフは引き返すこともせずにそのまま王宮から出て、環の自宅へと向かった。
『ルドルフ様、こんな夜遅くにどうなさったのですか?』
『息抜きに来た。』
『今、コーヒーを淹れますね。』
環はルドルフが外套姿のままソファに座るのを見ると、黙って厨房へと向かった。
「また皇太子様がいらっしゃったのですか?」
「ええ。きっと奥様と何かおありになったのでしょうね。」
環はコーヒーを淹れながら、新しく雇った日本人の女中・春を見た。
「お春ちゃん、今日はもう遅いから帰ってもいいわ。」
「解りました。それじゃぁ環様、失礼いたします。」
『コーヒーにお砂糖はいりますか?』
『要らない。タマキ、こっちへ来い。』
『はい。』
環はテーブルの上にコーヒーカップを二つ載せた銀製のトレイを置くと、ルドルフの隣に座った。
『また、奥様と何かあったのですか?』
『ああ。シュティファニーのやつ、勝手にわたし宛ての手紙を開けた上に、ビリビリに破いた便箋をわたしに投げつけながらわたしを詰ってきた。嫉妬深い女は嫌いだ。』
『それは大変ですね、新婚早々。』
『わたしはシュティファニーに自分の事を理解して貰おうと、わたしが行きつけの酒場にも連れて行ったし、わたしの友人達にも会わせたが、あいつは興味すら示さなかった。』
ルドルフはそう言って溜息を吐くと、環の膝の上に己の頭を乗せた。
『結婚は人生の墓場だと以前大公から言われたが、今のわたしは生ける屍同然だ。』
『そのような事をおっしゃらないでください、ルドルフ様。』
環がルドルフの髪を優しく梳くと、彼は暫く経って安らかな寝息を立て始めた。
「すいません、忘れ物をしてしまって。」
「お春ちゃん、まだ居たの?」
「はい。あの、さっき裏口から外へ出ようとしたら、見慣れない馬車がお屋敷の前に停まっていました。」
「どんな馬車なの?」
「はい、それが・・」
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