深山木【6】 現代語訳の試み 不浄を清浄に取り替えるのと同じです
【6】東沼村長百姓潰新右衛門・惣兵衛と申候ては、一二を争ひ候程之旧家ニ御座候所、右両家は往古、屋敷内え門前百姓と申候て、家来同様之者共八九軒ツゝも住居致居、田畑作立候処、世の中次第ニ奢強く相成、兎角門前百姓といわれ候歟残心ニ存込候折柄、元禄九年之頃桜町新規建御世話有之、門前之者ニても望之者えは屋敷地并田畑ともに添被下、本百姓ニ御取立可被下旨。行末之義は少も不奉存、夫々引越候所、地面悪敷場所引越、自然と引越候者も及困窮ニ、又両家抔も大家ニて暮し居、急に耕作等自分として作り兼候哉、自然と及潰候由。依之右惣兵衛跡式えは東沼村名主弥兵衛と申者之娘ニ聟を取相続為致、新右衛門跡式えは長蔵と申者相続為致、両家共に新規建家作、並々より念入拵差遣、往古之持地も有之候ニ付、荒地起返し、家株相応ニ差遣、相続為致候。扨又当時ニても、名主役ニても相勤候家筋之者は、多分は及困窮、前世の悪業相嵩居哉、度々厳敷及理解、米金差遣、借財等も棄捐ニ申付ても何分難立直り、既ニ当春迄横田村常右衛門と申もの、名主役相勤居候得共、追々難渋相嵩、無余義退役申付候。右ニ付、家財・屋敷・田畑迄も差出分散ニ取計候様相聞、余り手強ニは無之哉と相尋候処、迚も当人共は右之因果ニて何程世話致遣候ても、倍増之借財と相成候事ニ付、一旦家財・家屋敷迄も夫々借用之方え為引取可申旨申渡、其後ニ候得共其血筋或は倅娘有之候得は、懇ニ世話致置、朝夕因果之道理等を度々申聞せ、弥承伏致候を見届、其家柄之分限ニ応し家作新規拵差遣候。然ル上は不浄と清浄と取替候趣、左候ハゝ旧家之者共取立候ても永続仕候義ニ御座候段、其実意之取計中々一通り之儀と奉存候。 【6】東沼村の長百姓の潰れ新右衛門・惣兵衛と申す者は、村で一、二を争うほどの旧家でございました。両家は昔は、屋敷内に門前百姓といって、家来同様の者たちは8,9軒ずつも住居いたしておりまして、田畑を耕作しておりました。世の中が次第に贅沢になっていくようになって、とにかく門前百姓といわれていることが残念に思われた頃合なのか、元禄9年の頃桜町で新規に一戸を建てて世話をするというので、門前の者でも望む者へは屋敷地並びに田畑ともに下されて、本百姓に取り立てて下さるということでした。行末のこと少しも分からないことながら、それぞれ引越ししましたところ、地面が悪い場所に引越して、自然と引越した者も困窮するようになり、また両家なども大家として暮していて、急に耕作などを自分で作るということができかね、自然と潰れてしまいましたとのことです。これによって惣兵衛の跡へは東沼村の名主弥兵衛と申す者の娘に聟を取って相続させました。新右衛門の跡へは長蔵と申す者を相続させました。両家共に新規に屋敷を作り、普通より念入りにこしらえてやり、昔持っていた土地も有りましたので、荒地を開墾し、家相応にしてつかわしてやり、相続させました。さてまた現在でも、名主役でも勤めるほどの家筋の者は、多くは困窮に及んでおります。前世の悪業が嵩んだせいかと、たびたび厳しく説諭した上で、米や金を遣わし、借財なども帳消しにしてやってもなかなか立直ることが難しく、既に今年の春までに横田村常右衛門と申すもの、名主役を勤めるほどでしたが、次第に困窮して行くようになり、やむなく退役を申し付けました。ついては、家財・屋敷・田畑までも差し出させ分散させるよう取り計うように聞きましたから、あまり手荒では無いかと尋ねましたところ、とても当人どもは、先祖からの因果でどれほど世話してやっても、借財が倍増することに成りますから、一たん家財・家屋敷までもそれぞれ借用の方へ引き取らせるよう申しつけ、その後ではありますが、その血筋あるいは息子や娘が有れば、親切に世話を致して、朝夕因果の道理などをたびたび申し聞かせ、いよいよ承伏致したのを見届けて、その家柄の程度に応じて家を新規にこしらえてやるのです。そのようにすれば不浄を清浄に取り替えるのと同じく、旧家の者どもを取り立てても永続するわけにはまいりませんとのこと。その実意の取り計らい方はなかなか一通りではないことでございます。 ☆この段は少し難しいところで、 報徳記でも、どれだけ世話してもかえって借財が増えるだけだ、更生の見込みがないと判断すれば退役させたり、あるいは進んでは援助等しないで、潰れてから子供や親戚の優秀な者を取り立てるとやり方を途中からとったため、藩からの出張役人にはいかにも露骨な切捨て政策とも見えて、「恐れながら・・・」と藩主へご注進がなされ、それが直接のきっかけで尊徳先生の成田山への断食祈誓へとつながって」いく。 この成田山の修業で 一円観 に達したともされ、その後桜町陣屋における報徳仕法は順調に推移するのであるが、 この成田山へのお籠りも 小田原藩に対するレジスタンス であって、それによって、桜町陣屋における施策のフリーハンドを得た政略的パフォーマンスに過ぎないといわゆる精神的深化に重きをおかない見方もあるのである。 最晩年の日光仕法の際には、こうしたやり方はみられないことを見ると、尊徳先生が生涯誰にも語られなかったという、成田山開眼のなんらかの悟りがあったと思いたい。