訳注静岡県報徳社事績 その10 遠江国報徳社 その2
4 事業1 無利息貸付 貧村及び社員の救済または殖産興業・水利土木の資金として町村社に対して無利息貸付を行った実績は明治11年より同36年まで4万2千円余円に達します。〔各年度ごとの貸付額は省略〕2 風教 報徳社は主として質朴をとうとぶために、毎月の定会に出席する者は数里の外か らワラジをはいて弁当を携えて定刻に必ず到着する。その質朴の風は、一見して報徳社員であることが分かります。祝儀は不幸の際には互いに倹約を尊び、相互に助けあいます。報徳社は勤倹推譲を旨とします。ぜいたくや怠惰の者及び不道徳の者もいったんこれに加盟する時は、次第にその行いを改めます。ですから結社の所在地にあっては芝居狂言等の興行があることを聞きません。裁判や訴訟は多く和解するため、社員相互の間にあっては、出訴は非常に少ない。また農業に努める精業善行者を賞与する規則を定め、本社で表彰式を行いました。前後7回、受賞者312人になります。町村社にあっては明治31年より36年末まで約3千人の多くが受賞しました。3 殖産興業•(1) 共益製茶販売組合 (2) 掛川信用組合 (3) 見付町報徳社連合信用組合(4) 浜松町報徳信用組合 (6) 掛川農学社〔以上の内容は省略〕(5) 東京小名木川の日本精製糖会社は遠江国報徳社員鈴木藤三郎の創立で、資本金2百万円を有する日本第一の精糖所です。鈴木藤三郎による特殊な発明は純白な氷砂糖です。始め藤三郎は資本金が少ない菓子商でしたが、森町報徳社に加入して商業の真理を悟って、いわゆる元値商いの法によって次第に商業が繁盛し、かたわら氷砂糖の製造に熱心に努めました。時に野州今市町に二宮尊徳の法会がありました。藤三郎は墓参のためこれに赴いた帰途、宇都宮の旅宿において隣室に宿泊していた学生の化学談を聞いて、大いに悟るところがありました。これによって純白透明な氷砂糖を製造することができました。これから工場を改造し、大いにその業を拡張し、後に東京に移住して、遂に今日の大成をなすに至りました。藤三郎は氷砂糖製造を二宮神霊のたまものとし、厚く報徳の道を信じ、毎月一回報徳会を小名木川の自宅に開いて工場の役員を始めとし、職工等を集めて報徳談をなし、勤倹貯蓄を奨励し、兼ねて恩恵を職工に施したため、工場制度は自ずからその間に行われました。藤三郎は現在同会社の専務取締役で、資産は数万円に及びます。同志者の吉川長三郎もまた同社の取締りとして藤三郎と心を合わせて協力しています。吉川もまた遠江国報徳社の社員です。4 教育 報徳社は直接に小中学学齢児童のために教育事業を施設する事はありませんが、その一般社会教育の上に助けとなり役立ったところは決して少なくありません。小学もしくは中学を出て家業に従事するもののために、毎月一回集会を催し、経済の講演を行います。〔明治30年以後、7か年間の出席者は延5万7千人余となる。表は省略〕本社の訓導は各町村の巡回講話を行い、また他府県の招きに応じて巡回講義を行います。〔明治30年以後、7か年間の出席者は延11万人となる。表は省略〕明治35年5月大日本報徳学友会を創立しました。岡田良一郎が会長となり、駿河東報徳社長西ヶ谷可吉を副会長に選任し、訓導山田猪太郎が編纂委員となった。毎月一回会報を発行し、すでに28回に及びます。その趣旨はひろく天下に学友を募集し報徳の教えを普及することにあります。明治15年本社見付町第二館において常会開会後、有志者で別に一会を設け、報徳学研究会と称して、報徳の道の原理を究め、実施の方法を講じ、個人の修養と結社の隆盛となることを企画した。また掛川町第三館に毎月一回第3日曜日を定会とする。40余名の会員があします。皆、報徳の道に熱心な者です。岡田良一郎をその会長とします。5 難村救済○山名郡堀越村〔現袋井市堀越〕は、村高885石5斗1升6合、田の反別80町6反8畝13歩、畑の反別10町1反9畝22歩、戸数104戸人口375人。弘化嘉永の頃より村政がはなはだしく乱れ、風俗がくずれ荒れてしまいました。当時、堀越村の村民は年貢が納められないため、村高の過半を地頭渡邊家へ土地を没収されていました。そのため農業は日々に衰退し、村民は不義を行っていました。村内に生産した米麦は村民の需要を充たすに足らないため、村民は連帯して高利の米を借り入れ、その返済は秋の時期、米価が下落の時に行うために、米一俵の元利金に当てるのに一俵半ないし三俵余も売却しなければならないようになりました。その時の名主役永井五郎作がこれを憂い、岡田佐平治について教えをこい、一村の興復をはかるには、報徳社を起すことが急であることを感じて、駿河の人、荒井由蔵という者を招いて村民を永井五郎作の家に集めて連日連夜報徳の道義を聞かせました。その結果、ようやく42名の者が議定書に調印して結社を見るにいたりました。明治5年(1872)2月のことです。その社員数は一村の戸数より計算するとまだ半数に達していませんでしたが、村役人を始めおもだった者が加盟したことから、一村に対して優勢で百事報徳社の決議を行う事ができるようになりました。従来村費は村役人の専断によって不正の費用を徴収し、村民の衝突を生じて常に村内の不和を醸成していました。永井五郎作は、これを憂い、一方には地主の公選により数名の村総代を設け、村費の賦課に立ち合わせ、費目の明細録を調製し、各地主に配布して疑心を無くさせました。他方では村費の大節減を行い、土地の負担を軽減し、その徴収日を一日間と定めて厳格に実行しました。費目が明瞭となり、土地負担が減少したことから、村民は大いに満足しました。これは岡田佐平治の教訓を実行したものです。また短期の年限を定め、すべて飲食の失費を節倹すべきだという教えに基いて、最初5か年を期して、飲食に関する倹約を実行しました。その一 婚姻披露の際に祝い酒を供することを厳禁するその二 葬式の際に酒飯を供することを厳禁するその他、あぜ道の改築、水路の開さく等を企画し、耕作灌漑の利便を得させ、大いに農業改良の道を講じて、かたわら農業に精出す者に農具を与えて表彰しました。また永井五郎作は、私田二反余歩を農業に出精する者に無税で耕作し収穫させるなど、農業の奨励法を行いました。このために村の人気は日に順調で良好に向かい、社運は年をおって隆盛におもむきました。明治32年(1899)耕地整理を実行させたので、僅々3か年間にして土地台帳の整理をも完成し、大いにその効果をあげるに至りました。〔以下省略〕○磐田郡今井村深見〔現袋井市深見〕は、嘉永の頃、風俗がぜいたくで遊惰に流れ、嘉永5,6両年(1852,1853)大干ばつ凶作が続いて、民風・村俗は大いに乱れ、加えるに同7年(1854)11月未曾有の大地震がありました。村内の家は皆倒壊し、太田川の堤防は崩れ、土地は凸凹を生じました。引き続いて安政2,3年(1855,1856)の両年ともに太田川が出水し、堤防の破壊は数箇所に及んで、濁水は波をうって耕地に侵入し、良田はたちまち荒地となり、作物は腐敗し、天災を被ることが前後6年に及びました。村民は食糧の確保にも苦しみ、やむをえず出稼ぎするようになりました。領主はこれを憂い、倉真村の岡田佐平治、垂木村の弥五兵衛に命じて、二宮尊徳の仕法に基いて善後策を講じさせました。佐平治は終始深見村に出張し、いろいろと調査を行って、ほとんど寝食を忘れて、日夜努力しました。大いに農業奨励の法を設けて、出精者を投票によって選んで賞与し、困窮した人民を救助し、負債米335俵、借金1,589両余りの償還方法を立てました。その期間は、文久元年より明治2年の十か年として、村民より請書を徴して、勤倹貯蓄を行わせました。明治2年には負債はことごとく償還し、439両の余剰を生ずるようになりました。これを一村の基本金として、以後専ら利殖をはかり、明治21年には同郡大藤村に33町余の山林を購入して一村の共有とし、そのほか堤防・道路の修繕など公益事業に費消した金額も少なくありません。〔以下省略〕○小笠郡平田村堂山〔現菊川市堂山新田〕は、くぼ地で、年々水害をこうむっていました。戸数はわずかに20余りで、人民は皆その生計に苦しんでいました。そこで村内の有志者が救済方法として報徳社を組織しました。当時わずかに14名でしたが、現在20名に達し、それぞれ家業に勤め貯蓄を奨励しました。現在水害があっても家に余分に資力があり、憂いがなくなりました。これは社長の松永源吉の誘導がよろしかった結果です。村民はこれを徳として碑を立て、その功績を記録しました。〔以下省略〕○山名郡彦島村〔現袋井市彦島〕は、水害のために連年実らず、人民は困窮し、負債は増えて償還方法がなく、田園はすべて他村のものになろうとしていました。有志名倉太郎馬は大いにこれを憂い、報徳の道によってこの回復をはかろうとしました。安居院の門人神谷久太郎に教えを求め、債権者と契約して年賦償還とし、日掛法でこれを実行しようとしました。名倉太郎馬は己を忘れて奮励し、村民を鼓舞しました。また農事改良に力を尽くし、まず水害を除くために、明治7,8年の頃、隣村と協議して一里余りの水路の開さくヲ企画し、村民から一千余円を支出させて、ついに開さくを成功させました。以後、彦島村は水害を免れ、人民は大いに農業に励んで、数年で負債を償還し、余剰を生ずるようになりました。なお、あぜ道が曲がり、道路が狭く、耕作に不便なのを憂い、畦畔改正に着手し、数月で成功させました。明治8年のことです。 後に袋井村の回復の方法を行い、悪水路の開さくを行い、水害を免れさせ、村内の生産力を増加しました。5 本社及び町村社社員数及び資産〔総計278社、9,051人、表は省略〕6 創設者岡田佐平治の小伝〔省略〕7 現在社長の履歴〔省略〕