補注「内村鑑三Q&A 山本泰次郎」 その11の2 禁酒・禁煙の誓い
また始業式の席上、生徒らに向かって、「節制につとめ、性欲を慎しめ」と訓辞して、黒田長官以下のなみいる人々を驚倒させました。そして直ちに「禁酒、禁煙の誓い」を起草して自ら筆頭に署名し、米国人教師と生徒の全員にも署名させました。彼自身、率先してこれを厳守し、いかなる場合にも、黒田長官の招宴の席でさえも、決して杯に手をふれませんでした。 [札幌農学校]明治9年(1876) 明治9年3月3日、ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)とアメリカ合衆国全権公使吉田清成との間で、ワシントンにおいて、雇い入れに関する契約が結ばれた(*1)。当時クラークは、マサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agricultural College)の学長を勤めていた。そのため長期にわたり、マサチューセッツを離れることはできず、契約に当り、期間を1年とするように条件を出していた。開拓使は契約期間2年を望んでいたが、「学校創立之際ニ当リ、特ニ熟達ノ教師ヲ要スルコト」であるので、必ずしもその条件に合わなかったが、クラークの雇い入れを決定した。クラークは「予が日本に在りて施すべき肝要なるものは、一ヶ年にて、ほとんど二ヶ年分のことは成し得べくと愚考いたし候」と抱負を述べている。結ばれた契約は、日本政府は教頭兼農学・化学・普通英語教師としてクラークを雇い、7,200円の年俸(開拓使長官黒田清隆の月報が500円)を支給するという内容のものであった。クラークの推薦により、さらにホイラー(William Wheeler 土木・重学・数学・普通英語担当)とペンハロー(Dabid Pearce Penhallow 化学・本草学・農学・数学・普通英語担当)の2名が雇い入れられた。2人ともクラークの教え子で、マサチューセッツ農科大学卒業生である。彼らは6月末来日し、東京に滞在した後、7月31日札幌に到着した。札幌学校の生徒の専門科の進学試験はクラークらにより行われ、13名が合格した。この13名と、やはりクラークらによる試験を既に東京で受けてきた11名とが、札幌農学校第一期生となる。専門科の開校式は開拓長官黒田清隆、校長調所広丈を始めとする開拓使官吏、外国人教師、生徒、その他100名以上が参列し、8月14日に行われた。この時クラークは次のように演説した。「少年の諸君よ、君らの本国は目今大いに君らの至誠至強なる従事を要するにあらずや、君らおのおのよろしく自国において勤労と信任及びこれより生る栄光の最上地位に適せんことを勉めよ。健康を保し、情欲を制し、従順と勉強の習慣を養い、時期の学ぶべきに遇はば、学術の何たるかを論ぜず、力の及ばん限りはその知識と妙巧を求めよ。かくの如くにして、しかしてのち、君らはよく重要の地位に適すというべし」(*資料篇に収録)9月8日、学校の名称が「札幌学校」から「札幌農学校」に改称された。入学資格は16歳以上で生徒は官費生とし、卒業後5年間開拓使に勤務すること。学期は2学期制として、8月~12月を第1学期、1月~7月を第2学期とすることなどが定められた。授業は8月17日に開始された。そのカリキュラムはクラークにより、マサチューセッツ農科大学のカリキュラムをモデルとして編成された。本科に入学した生徒は、全員が寄宿舎で生活した。一室に2名が入居し、室内には机・本箱・寝台・ストーブなどが用意された。食事は三食とも洋食だった。官費生は、食料・衣類・学用品など生活・学業に必要な一切のもののほか、小遣いが週に20銭ほど支給された。9月には教師ホイラーにより、気象観測が始められ、校園(College Farm)として開拓使札幌官園約30坪が農学校の付属地となった。11月、クラークの指導により、「禁酒禁煙の誓約」(*2)が結ばれ、また寄宿舎内に「開識社」という弁論や討論を通じて知識を広めることを目的とした団体が結成された。12月には、校内に書庫(図書館)ができた。(「農学校物語」p18-23抜粋)*1 吉田公使へ依頼状は、つぎのようなものである。(「札幌農学校」復刻p33-35) 当使仮学校生徒追々進歩普通学卒業の者多数これあり候につき、今般札幌表へ更に農学専門科設置の都合に候ところ、右教授のため相当の人物あい雇い申したく、よって別記手続条約案等4通さし進み候あいだ、この旨ご了承の上、その国農学有名の内より教頭を兼ねしむべきもの1名御選挙あいなり、他の2名は右教頭へ御示談の上然るべく御取計い、なほ兼務の都合により人員不足の節は更に1名の博士雇い入れこれ有りたく、この段御依頼に及び候也。 開拓使 黒田清隆 米国ワシントン在留 全権大使 吉田清成殿 雇入れ手続一、 別記2科以上の博士にて教頭(即ち副校長なり。校長は内国人を用ゆ)兼ねしむべきもの。一、 農学校は本邦の新創に係るを以て、教頭に選むべきものは若干年間その国農学校に在りて教則を熟知し、学科に練達し、我が校長の顧問に応じ諸規則を議定すべき技量を有すべし。一、 他2名の教師は教頭と商議してこれを選定すべし。一、 条約書のほか左の条を承諾するを要す。 第一 博士3名にして左の学科を教授せしむ。農学、化学、獣医学、人身究理、動物学、物理学、数学、画学、本草学、器 械学、土木学 教頭即ち副校長もまた右3名のうちより選定す。 第二 右歳俸はおよそ一万三千ドルとす。即ち教頭を兼ぬるもの5千ドル 他2名各4千ドル 第三 書籍器械歳額五百ドル薬品歳額千ドルとす。 第四 生徒現員五十名、そのうち直に専門に就かしむべき者二十名。その他の生徒は農学に就かしむべき予習即ち普通科(英語・地理・文法等)を教ゆるもまた博士の職とす。 第五 前文二十名の生徒といへども校長及び教頭協議の上若し幾日月の予習を要するとせば、この教授もまた博士の職とす。 第六 右五款若し教頭これを認めて農学を開くに不便なる条ありとなさば、その事故を具状して条約前に開拓使に報ずべし。 第七 右五款若し教頭これを承諾して農学校を開くに足れりとなさば、即ちこれを熟慮し、他の博士を選定す。*2 「誓約書(Plege) 我等下ニ署名スル。札幌農学校ノ職員並ニ学生ハ(We, the undersigned, officers and students of the Sapporo Agricultural College,)、学校ト関スル限リ、医薬ノ外ニ、如何ナル形式ニテモ阿片、煙草及ビ酒類ノ使用ヲ厳禁スルコトヲ茲ニ誓約ス(do hereby solemnly promise to abstain entirely from the use, in any form except as medicine, of opium, tobacco, alcoholic liquors,)。又併セテ賭博及ビ神ノ名ヲ穢スコトナキヲ誓ウ(and also from gambling and profane swearing, so long as we are connected with the institution.)。」 ○内村鑑三は「羅馬書の研究」で、クラークが禁酒を教員と生徒にいかに誓約させたかを語る。「故(もと)の札幌農学校教頭ウイリヤム・S・クラークは日本に来る際健康維持の必要上四ダースの純良ブランデーを携へ来つた。これ酔ふて楽しむためにあらず、時々小量づゝ用ひて疲労を医(いや)し健康を維持せんためであった。然るに品川より小樽への船中、飲酒が如何(いか)に日本人-殊に日本の青年を毒しつゝあるかを実見して大に感ずる所あり、日本を救ふために禁酒奨励の必要を感じ、札幌に着くや先づそのブランデーを棄てゝ自ら禁酒の実をなすと共に禁酒会を起し、以て禁酒の必要を熱心宣伝する所あつた。此一事によりて先づ禁酒の美風が我国に入り、以て今日盛なる禁酒事業の一源泉となつたのである。何れでもよき事である故に愛の標準に照らして定むるとは、正にかくの如きを言ふのである。」○一期生の分裂はPlegeを遵守するかで起こった。札幌農学校最初のクリスチャンである伊藤一隆は終生禁酒運動に尽力したが、この一期生分裂の体験がしからしめたのではなかろうか。日本における禁酒運動は実に札幌農学校から始まる。内村は真の友情は真正の嘆美(admiration)に始まるという。「酒は交際の機関であるとは全くのうそである。酒は相互の弱点を現わすもので、これがため真正の嘆美の念の起こりようはずじゃない。そうして嘆美の念なくして真正の友誼は成り立たない」と。札幌農学校の友情もまた、相互の真摯な祈祷に対する嘆美に始まったという。「私は宮部君とは、明治8年、外国語学校以来、ほとんど50年間の友人である。札幌に行いてより四年間、同級同室の好みを続けた。・・・さて、何がゆえに、かくも長く交友を続け得しかと言うに、それには理由があるのである。同室四年間の生涯において、毎夜十時の鐘を聞けば、われらの内の一人が必ず室を去ることになって居た。何のためにかというに、ひとり、人の見ざる所において神に祈らんためであった。君の去りし夜には私が止まり、私が去りし夜には君が止まった。そして長い間には、まだ祈祷の姿勢においてありし間に相互を見たのである。この神聖なる態度において相互を見しわれら二人には、相互に対し深き信頼が起こらざるを得なかったのである。そしてこの信頼をもってして、長き一生の間、われらの間に何事が起こりても、われらの間の友誼は少しも害われなかった。四年の間の祈祷によって結ばれし友誼である。ゆえに鞏固である。」