「 みつけたもの 」Gefunden
「初めて先生からドイツ語の手ほどきをしていただいた頃、ドイツ語の詩を暗誦させられた。 Ich ging im Walde 〔ぼくは森に出かけた〕So fur mieh him, 〔ひとりきりで〕Und nichts zu suchen, 〔何を探すでなく〕Das war mein Sinn 〔それがぼくの好きなことだったから〕(森陰で僕は見た 一本の小さい花が咲くのを星のようにきらめき 瞳のようにきれいだった 僕はそれを摘もうとした その時花は言った「折られてしまって 死ぬしかないのですか」と 僕は全体を堀った 小さい根の所から 僕は庭へ花を持っていった きれいな家のそばの そして花をまた植えた 静かな場所に 今はいつでも枝を伸ばし ずっと花が咲いている)というゲーテの Gefunden( みつけたもの)もその一つです。先生は始終話しているのが発音に熟達するのに最もよい方法であると言われました。」全集別巻p.68-76 新渡戸先生の追憶(抜粋) 高岡熊雄 北海道帝国大学総長 私は新渡戸先生が海外留学を終って明治二十四年に札幌に帰って、六か年間親しく先生の下に教えを受け、その後本年に至るまで先生の薫陶を受けた。 先生は札幌農学校を卒業後開拓史に奉職になり、後に東京大学文学部に入り、英文学と経済学とを研究された。当時の東京大学文学部の学科中には経済学も含まれていた。後、先生は日本とアメリカとの間に一つの橋を架けるのが自分の使命であるとの考えでアメリカに留学された。 北米合衆国ではジョンス・ホプキンス大学で三年間、経済学、統計学及び英文学を研究し、その後札幌農学校の助教となったが、更に農政学を専攻するためにドイツに留学になった。 当時のドイツの経済学界はちょうどいわゆるドイツ学派が興って、イギリス学派と相対立するに至った時代であった。特に農政学においては他国よりも一段進んでこれが研究されていたので、新渡戸先生が農政学の研究のためにドイツに行かれたのは真に当然であったと思う。そして先生が入学したのはボン大学である。ボンの大学はわが国で申せばちょうど学習院のごときで、ホーヘンツオレルン家の皇族たちは多くはこの大学に遊ばれ、ヴィルヘルム二世また皇太子もこの大学に入学された。私も後に新渡戸先生の勧めによってこの大学に遊んだが、ちょうど私が入学したおり、ドイツの皇太子も入学され、殿下と共に同じ教室で講義を聴いたものである。新渡戸先生がつとにこの大学を選ばれたのは、その当時有名な経済学者ナッセ教授がおられたからであったと思う。ナッセ教授は経済学の中で特に農政学によほど興味を持っておられた方で、アングロサクソンの民族における農地共有制の存在についての研究発表で有名である。ボンの大学はライン川の辺り、風光明媚の地にあり、またこの街には偉大な作曲家ベートーベンの生家がある。また大学の近くライン川の辺りにはアーントの銅像があり、Der Rheim, Deutschlands-Strom, nicht Deutschland's Grenze〔ラインはドイツの川でドイツの国境ではない〕という有名な句が刻んである。(略) 先生はボンの大学を去り、ボストンに移り、マイツエン、ワグネル、シュモラー教授に師事され、最後にハレの大学に遊ばれた。ハレ大学においてはコンラッド教授に親しく師事された。さきにボン大学のゼーリング先生に勧められ、ベルリン大学で研究され、更にこのコンラッド教授のところにおいて完成された新渡戸先生の論文に「日本の土地所有、分配並びに農業的利用」がある。これが先生のハレ大学学位論文である。その第一章には歴史的土地制度を、第二章には現在の土地制度が論究されている。(略)先生はハレ大学において学位試験を受けられ前述した論文は既に審査合格となり、いよいよ口頭試問を受けらるるとき、大学の規定により宣誓しなければならなかった。然るに先生は熱心なフレンド宗の方であるから、誓いをなすことを拒まれた。指導教官は先生と同時に受験したユダヤ人も誓いをなし、別にたいした意味のものでないから誓いをなすよう再三勧められたが、先生はそのような意味の誓いならなおさらすることはできないとて、ついに宣誓せずして受験して合格されたそうです。おそらく誓いをせずして受験したのは他に例があるまいと話されたことがある。 なお、先生はコンラッド教授の演習において「日本の農民解放」を書かれた。ちょうどコンラッド教授は国家学大辞典第一版を編集中であり、先生の論文を一流諸学者の執筆論文よりなるその辞典に加えられた。かくて先生は一青年学徒でありながら、堂々世界的学者と肩を並べて論文を掲載する事ができたので、こんな嬉しいことはなかったと先生から後に伺ったことがある。 先生はドイツからの帰りにアメリカ合衆国を通り、さきにジョンス・ホプキンス大学在学中のアダムズ教授について研究された「日米交通史」を訂正して、ジョンス・ホプキンス大学の歴史学及び経済学叢書の一つとして出版された。 かくして明治二十四年、先生は日本に帰られた。札幌農学校に帰られて、学校における授業も農政、植民、農史、農学総論、経済学等種々の学科を担任された上、英独の語学まで教授された。更にその外、先生は予科の主任、教務の主任及び図書館の主任と多くの仕事に関係された。 明治二十四年先生が帰朝の折、私は予科生だったが、先生から初めて英語を教わった。それは独り教室においてのみならず、毎日曜には先生のお宅までもお邪魔したもので、当時の懐かしい思い出は今もはっきり私の脳裏によみがえってくるものがある。また私は予科を卒(お)え本科に入ってから、初めてこれも先生からドイツ語の手ほどきをしていただいた。その頃まだデル・デム・デンもわからない中に、ドイツ語の詩を暗誦させられたものです。その折暗記したものは今もこれを覚えております。Ich ging im Walde 〔ぼくは森に出かけた〕So fur mieh him, 〔ひとりきりで〕Und nichts zu suchen, 〔何を探すでなく〕Das war mein Sinn 〔それがぼくの好きなことだったから〕*云々というゲーテの Gefunden 等その一つです。先生は始終話しているのが発音に熟達するのに最もよい方法であると言われました。先生は前にボン大学に留学された折、ドイツ語を学習された当時は、毎日二十なり三十の単語を書いた紙片をポケットに持って、街を散歩などする時にもこれを暗誦するように努められたそうである。郵便切手を買うにも必要なだけ一枚ずつ買ってこられた。なぜそんなことをしたかというと、とにかく切手を買うにもしゃべらなければ買えない。そのしゃべるドイツ語を習得するためにかようなことをされたということです。* 「 みつけたもの 」Gefunden僕は森に出かけた ひとりきりで 何を探すでもなく それが僕の好きなことだったから森陰で僕は見た 一本の小さい花が咲くのを星のようにきらめき 瞳のようにきれいだった僕はそれを摘もうとした その時花は言った 「折られてしまって 死ぬしかないのですか」と僕は全体を堀った 小さい根の所から 僕は庭へ花を持っていった きれいな家のそばのそして花をまた植えた 静かな場所に 今はいつでも枝を伸ばし ずっと花が咲いている先生の農学校に奉職の際に札幌農学校の学制に変革があり、明治二十七年特定学科を専攻し得る制度になりました。午前は皆一様の学科を、午後は農学、農政学及び農業経済学、農芸化学、植物病理学等に分かたれ、それぞれこれを専攻し得るようになった。これがわが国において農政学及び農業経済学専攻施設の最初です。そしてその時初めて経済学を研究するのに演習すなわちドイツ語でいうゼミナールが開かれた。経済学研究のための演習制度も日本においては実にこれが一番最初でした。先生は佐藤昌介先生と共にその創設者であったのです。当時先生は講義にその他の公務に非常に多忙にわたられ、夜分でも遅くまで机に向かって研究されていましたが、ついに病気になられました。そのために明治三十年と思いますが、農学校を辞して静養しなければならない事となった。農学校在職中は繁用にもかかわらず、先生は「農業本論」を著し、これによって先生は学者として一躍日本の学界に認められた。そして病気療養のために米国に出られ、かの地に静養中できたのが「武士道」であり、先生はこれによって世界の新渡戸博士となられた。この「武士道」は世界各国語に翻訳されて広く全世界の人士に愛読された。