アジアの土台となる「稲作農業」という文化
EUには、共通の土台となるキリスト教という宗教がある。日本、中国、韓国で仮に東アジア共同体をつくろうとなった際に、はたしてそのような共通する土台があるだろうか。私は、その土台は一つの宗教ではありえないと思っている。儒教にしても中国と韓国では一般的だが、日本では違和感がある。それでは仏教はというと、日本は大変影響が強く、又韓国でも割合浸透しているが、中国ではその影響が大変薄くなっている。一方、道教は中国と韓国、特に韓国では大きな力をもつが、日本ではほとんど力をもっていない。 東アジア共同体なるものをつくるにしても、その土台を一つの宗教に求めることはできない。しかし宗教的土台とは別な土台がある。それは「稲作農業」である。日本と韓国はほぼ全面的に稲作農業だし、中国も国土の南半分は稲作農業である。俺にインドも東半分は稲作農業であり、東アジア世界全体に共通する。 それに対してヨーロッパ諸国は小麦農業を主体としつつ、牧畜が加わっている。これが東アジアとヨーロッパの農業の大きな違いであるが、生産の基礎が異なる文明はその思想にも相当な相違があるのではないだろうか。 端的にいえば、それは自然に対する考え方の違いである。小麦農業の考え方は「自然支配」であり、森を開拓して小麦畑にして、そこから文明がつくられていく。「ギルガメッシュ」(メソポタミアの都市国家ウルク王)の物語で、ギルガメッシュ王が統一したとき最初にやったことが森の神フンババの殺害であった。この物語のように、中近東および南ヨーロッパなどは、かつては森林を次々と壊していった。しかし稲作農業はそんなに徹底的に森を壊すことはできない。春夏にかけて雨が降らなくてもいい小麦農業とは異なり、稲作農業は水に依存している。水があるために河が必要であり、河に水を確保する為にはやはり森がなくてはならないから、森を大事にする文明になった。民俗学者・柳田国男の説によれば、森の神は田植えと同時に田の神になって、そして刈り入れと同時にまた森へ帰っていくという。だから日本では、森の神を殺すという思想はない。 そう考えると、二つの農業はその性質上、思想の違いを生む。一つは森を壊す文明であり、もう一つは森を守る文明である。二十一世紀になり、環境破壊の深刻さが広く知られるようになった現代において、森を守る文明はたいへん重要な存在意義をもつだろう。現に日本はこれだけ近代文明が発達した国でありながら、まだ国土の約三分の二が森林として残っている。このような国は他にないだろう。これは仏教、なかんずく法華経の「草木国土悉皆成仏」の思想が影響しているのだろう。これからの人類にとって、大変重要な意味をもつ言葉ではないだろうか。 もう一つ、アジア共通の文化をあげるとすれば、それは「祖先崇拝」の精神である。これは儒教、道教、仏教のいずれにも共通している。先祖崇拝のせいしんとは、人間というものを現在だけではなく、遠い遠い過去に遡って考える精神である。人間の命を現在だけでなく、過去、遠い未来に渡って非常に長いスパンで考える。 ヨーロッパの近代思想の源流になったのはデカルトの思想である。「我思う、故に我あり」の「我」は個人である。デカルトにもずっと祖先があるはずだが、ここでは祖先はまったく考えられず、「我」がどこから来て、どこへ行くのか。そういったことはすべて抽象化されてしまうのだ。 「稲作農業」に見られるような自然観によって、命のつながりがずっと横へ広がっていく。また「祖先崇拝」の精神で過去と未来をとらえることで縦にもつながっていく。そのようなアジアの精神性は、これからの人類にとって非常に意味あるものとなるだろう。その二つの思想を土台にして、まずは日本、中国、韓国の三国でアジア共同体「AU」をつくるべきだと思うのだ。 中国や韓国に対しては、日本が反省すべき点は多々ある。かつてアジア諸国を植民地にしようとしたが、同じ黄色人種で、同じ文化の国を植民地にするのである。際応じんがアラブ諸国やアフリカを植民地としたことより罪が重いかもしれない。それを十分に反省すべきであろう。 むろん中国としても、いわゆる中華意識、大国意識を捨てなければならない。その意味では、もしAUができたなら、勧告を議長国にした方がいいというのが私の考えである。EUと同じく、できるだけ小国を議長にしたほうがいいと思うからだ。 中国はいま、経済発展と同時に環境汚染という深刻な問題に直面している。日本は公害問題を解決した先進国として助力を惜しむべきではなかろう。日本は中国の歴史ある文化から学び、中国もまた中国文化の影響を受けつつ、独自な文化を作った日本の文化を尊重すべきだろう。独自に中国文化をよく見ていくべきだろう。日本は偏狭なナショナリズムに固執するのではなく、大局観に立って、人類の未来にとって最も貢献しうる道を歩み始めるときが来ているのではないだろうか。 「日中関係」の未来に望むもの梅原 猛 「潮」07・9月号