|
カテゴリ:陰謀論批判
物事には、なんでも 「似ているところ」 と 「違うところ」 が存在する。したがって、どんなものでも抽象化のレベルしだいで、一つにまとめることもできれば、別々に分けることもできる。人間と馬は種としては異なるが、哺乳類という点では一緒だし、人間と石ころは全然似ていないけれど、物質的存在という点では同じである。 むろん、実際にはその区別を明確につけるのは難しいことではある。「概念」 というのは抽象の産物であり、具体的な事物というものは、「概念」 によって作られているわけではなく、したがって 「概念」 どおりに明確に区別されて存在してはいないのだから。 「陰謀論」 というものは学問的概念とまでは言えないし、明確で確定された 「定義」 が存在するわけでもない。人によってその定義は様々であり、多少の違いも存在するかもしれない。しかし、たまたま外見が似ているからといって、全然違うようなものを一緒にしてしまうような 「定義」 というものは、事実上、役に立たない。「定義」 というものは、似てはいるが違うものを区別できてこそ、意味があり、役にも立つ。 よく使われる言い回しに、 「味噌もクソも一緒にするな」 という言葉があるが、実際の話、もし鼻が詰まっていたりしたら、味噌とクソを分けるのは、味噌とクソを一緒にするよりも、はるかに難しいことであるに違いない(汚い話でごめんなさい)。 そうは言っても、たしかに、味噌もクソも、色や形状が似ているという点では、一括りにできないわけではない。しかし、そのような味噌とクソを一緒にした 「概念」 をなんらかの定義によって作り上げたところで、実用性などないし、したがってその意味もないというものだ。 こういうことは、「陰謀論」 の話だけでなく、いろいろなことにも当てはまる。学問的な検証に耐えうる史実の見直しと、探偵気取りの単なるディレッタントによる興味本位や、あからさまな政治的意図に基づいた 「歴史の見直し」 の関係もそうだが、似ているものどおしの微妙な差異を理解するのは、その「共通性」 だけに着目して一緒くたにするよりも、ずっと難しいことなのである。 具体的に言えば、1930年代に、スターリンが潜在的な政治的ライバルを一掃するためにでっち上げた 「モスクワ裁判」 や、ナチによる 「ユダヤ人絶滅政策」 が、そういう例になるだろう。 金正日による 「拉致事件」 も、通常の感覚からすれば、まずありえないことだったのだが、実際にはありえたわけだ。実際、工作員に日本語を教えるとか、日本の書籍などの翻訳をして、情報収集をするというだけなら、自発的に協力を申し出る者などいくらでもいたはずであり、あんな馬鹿げたことをする必要など少しもなかったはずなのだが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[陰謀論批判] カテゴリの最新記事
一般化の話も、後半のありえない陰謀論の見分け方の方法も、わかりやすくて面白いです。一般化の方に関してよく考えることがあるんですが、この性向は生物には生存のために不可欠なものだと思います。危険を一般化しておくことも大切ですし、餌を一般化しておくことも必要です。ところが、この性向が、ますます進展する国際社会では、偏見や差別のもとになるのも否めません。するとこの際、人類は一般化という遺伝子を意識的に抑圧していく方向に進むんじゃないか、と思うんです。もちろん生活の場面での話で、科学的な思考にとっては必要なものなので残しておかないといけないんですが。それと、一般化が、充分なデータから帰納的に得られた場合には許されるし必要な場合も多いですが、データが不十分であったりデータを得る方法がいい加減であったり、あるいはデータなしに既成の価値観をはめ込んだりして出来上がった一般化の場合は百害あって一利なしだ、と思います(例、血液型、人種差別)。
(2009.03.24 02:31:09)
cozycoachさん
フーコーの「言葉と物」の冒頭に、ボルヘスからの引用がありますね。 >動物は次のごとく分けられる。 >(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、 >(c)飼いならされたもの、(d)乳のみ豚、(e)人魚、(以下省略) 近代以前の呪術的な思考では、形態や味、臭いなどの類似性から、様々なものが同一に分類されたり、関連付けられたりしたといいます。胡桃の実は大脳に似ているから、頭痛に効くとか。 そういう事物の類似性や相似性に着目することから、事物の一般化・抽象化は始まったのでしょう。たしかに、臭いが強烈なものや苦いもの、不味いものを嫌うのは、危険な毒を含んだものを避けようという本能的な行動の名残なのかもしれません。 日本人は猛毒のフグを安全に食べる方法を発見しましたが、それまでにいったい何人がその危険に挑戦し、命を落としたものやら(今でもたまにありますが) 表面的な類推や直接の経験のみに基づく一般化は、今では非科学的な方法として学問等では退けられています。しかし、それは思考の手始めとして皆持っているもので、日常の場面ではそれなりに役立つし、咄嗟の場合にはそれしか頼らざるをえないこともあります。 そういう思考には、経験的な知を得るための重要性もあるので否定はできません。未知の世界に放り込まれた場合、机上の知識だけではなんの役にも立ちませんし。 ただ、その限界を弁えておくことと、可能な限り表面的な類推から深いところまで思考する訓練を積んでおくこと、新たな経験を得た場合は、それによって修正していくという態度を忘れないことが大事なのでしょう。 (2009.03.24 04:39:31)
永井陽之助先生の訃報のニュースを先週聞いて、今日管理人さんの陰謀論批判の記事を読んで…
>一般的に言えば、あまりに規模が大きく、したがって、膨大な協力者を必要とする 「陰謀」というものは、まずありえないし、あってもすぐに露見する。陰謀というものは、普通、お互いに信用できる少数の人間によって企まれるものであり、したがって社会全体を自由に操作するなんてことも、まずありえない。関係者が増えるほど、不確定要素が大きくなるし、意図したとおりの効果が生まれるということも難しくなる。< 永井先生も授業中によく同じことを言っていたなあ…。あっ、私は青学時代に永井先生の講義のマイク準備係を二年間していました。もしかしたら管理人さんも永井先生のファンですか? (2009.03.24 17:28:02)
ももちっ子さん
報じられている永井陽之助さんの死は、三ヶ月前だそうですね。近親者だけで葬儀を行ったそうで、死去自体も公表されてなかったということなのでしょうね。 残念ながら、永井さんについてはラスウェルなどの訳書ぐらいでしか知りません。思想的に言うと、戦前の河合栄治郎のようなリベラリストの系譜ということになるでしょうか。 私はいちおう法学部政治学科の出なのですが、学生時代は全然講義にも出席しない、不真面目な学生なのでした。 (2009.03.24 19:49:34)
僕の考えは、言葉は違ってもほぼ同じだと思います。
(2009.03.29 15:51:35)
|