今になってしまうと半分信じられないような、夢だったような生活があった。
中2から高1まで二年間と少し、海辺で暮らした。
富山県滑川市、富山湾に面し能登半島と対峙する人口3万程の町。
写真は我家の玄関から撮ったもので、道路を越えると田圃があり、その先は防波堤。
ちょっと背伸びをすれば定規で線を引いたような海が見える。家から波打際まで100m位だろうか。
信州の山の中で育ったのだから、海が珍しくてしょうがない。
引っ越した当初、暇さえあれば海岸で飽くことなく海を眺めていた。
能登半島があるため海に直接沈む夕日は見られないが、山入端に陽が沈む黄昏時は、一条の光の帯が海に伸び、田も道も、古い屋並もコンクリートの防波堤も、木々も金属も赤く染まった。
今でも忘れられない感動は、奇跡的に晴れ上がりピンク色に輝いた厳冬の山々である。
降り積もった雪が季節風で研がれた急峻な立山連峰、立山、剱岳が目の前にあった。
時化の時は防波堤に砕ける波頭に圧倒され、漁港入口にある高さ5m程の灯台が波に沈む様に、海の膨大なエネルギを思い知った。
200mも行くと海水浴場があった。考えてみれば家から水着を着て、海水浴場まで歩いて行ける人なんて、日本に何人居るだろう。
しかしそこは、石ころだらけで急勾配が深みへと続く海水浴場だった。
遠浅の海しか知らない私は、何の躊躇も無く十数m泳ぎ、立ち上がろうとしたが何と足が着かない。
これには慌てた。何とか戻ることは出来たが、溺れる怖さを身を持って知ってしまったからには、二度とそこで泳ぐ気にはなれなかった。
しかし、誰も居なくなった夕方の海水浴場は、暑い夏の日を静かに冷やすかのように、ギラギラした太陽の残照がかすかに残り、私は好きだった。
今こうして書いていると、たまらなく懐かしい。しかし、もう住みたいとは思わない。
海が珍しかった少年も春夏秋冬の一年間の表情を見続け、飽きた。
それと共に、海ゆえ我慢しなければならないことがあるのを知った。
とにかく湿気がひどい。乾燥した内陸から移り住んだのだからなおさらである。そして金属は錆びる。
海辺の生活では確実に失う物がある。
自宅を中心とした円の半分は海であり、船でも持っていれば別だが自力でそこへ行くことが出来ない。
内陸に住む人と比べれば、行動範囲は半分になってしまうのだ。
長く住むと、この制約は意外に効いて来る。
信州の山の中で育った子供にとって海は夢だった。
その夢を叶えたのと引き換えに、海への憧れを失った。
海は時々見るに限る。