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カテゴリ:08読書(フィクション)
今日は世間一般では衣替えである。台風が近づいて来ているというのに、ビルの切れ目は雲ひとつない高い空。夏が去り、秋が来た。
少し長いけれども、夏の終わりに紹介しようと思っていた詩を書き写す。1950年18歳の少年の詩である。 ネロ 愛された小さな犬に ネロ もうじき又夏がやってくる お前の舌 お前の眼 お前の寝姿が 今はっきりと僕の前によみがえる お前はたった二回ほど夏を知っただけだった 僕はもう十八回の夏を知っている そして今僕は自分のや又自分のでないいろいろの夏を思い出している メゾンラフィットの夏 淀の夏 ウィリアムスバーグの夏 オランの夏 そして僕は考える 人間はもう何回位の夏を知っているのだろうと ネロ もうじき又夏がやってくる しかしそれはお前のいた夏ではない 又別の夏 全く別の夏なのだ 新しい夏がやってくる そして新しいいろいろのことを僕は知ってゆく 美しいこと みにくいこと 僕を元気付けてくれるようなこと 僕をかなしくするようなこと そして僕は質問する いったい何だろう いったい何故だろう いったいどうすべきなのだろうと ネロ お前は死んだ 誰にも知られないようにひとりで遠くへ行って お前の声 お前の感触 お前の気持までもが 今はっきりと僕の前によみがえる しかしネロ もうじき又夏がやってくる 新しい無限に広い夏がやってくる そして 僕はやっぱり歩いてゆくだろう 新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ 春をむかえ さらに新しい夏に期待して すべての新しいことを知るために そして すべての僕の質問に自ら答えるために 1950年、不登校の息子に業を煮やした評論家の谷川徹三が「お前はどうする気なんだ、大学にも行かないで」と問い詰めた。息子はやむえず「僕はこういうものを書いています」と二冊のノートを差し出す。それを読んだ徹三は友人の三好達治に相談し、その年「文学界」という雑誌に息子の詩が六篇載る。そのうちの一編がこの詩であり、そのノートはやがて詩人谷川俊太郎の処女詩集になる。 二十億光年の孤独 ここにあるのは、みずみずしい感性を持った若者が人生の朱夏の入り口で畏れそして決意しているさまである。 そして僕は質問する いったい何だろう いったい何故だろう いったいどうすべきなのだろうと 若者はそうして戦後の荒波の中に入っていき、58年が過ぎた。私なんかは夏が終わり、人生の白秋をむかえつつある現在、資本主義の矛盾が何度も何度も新しい段階を迎え改憲さえ叫ばれ、先が見えないこの世の中はなんなのだろう、何故なんだろう、どうしたらよいのだろう、と未だに彷徨している。 世の中に新しい谷川少年はいるだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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