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凡声庵閑話:南正邦の覚え書き Minami Masakuni

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2020.10.27
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カテゴリ:彫刻について
二科会は、大正八年(1919)、藤川勇造(ふじかわゆうぞう)が会員に推されて、始めて彫刻家の加入を見た。

藤川勇造「スザンヌ」

藤川勇造は、明治四十一年(1908)の東京美術学校彫刻科の出身で、早く渡仏して巨匠ロダンの薫陶を受けた人である。

藤川勇造「印度の男」

後、二科会は、アルキペンコ、ザツキン等の新形式の彫刻をも紹介した。




アルキペンコ作品


ザツキン作品

また藤川勇造の指導によって、渡辺義知(わたなべよしとも)、三浦舜太郎(みうらしゅんたろう)、早川巍一郎(はやかわぎいちろう)、笠置季男(かさぎすえお)らの新人が現れ、渡辺義知は会員に推された。


渡辺義知 「裸婦」

しかしながら、二科会は主として藤川勇造の作品によって、現代の彫刻会に重きをなしていると言うも過言ではなかろう。


藤川勇造「教育家О氏の像(小原国芳先生)」



児童百科大辞典22(美術教育篇)より


また国画会の中にも、彫刻部が設けられて、金子九平次(かねこくへいじ)を中心として、高田博厚(たかだひろあつ)らが現れた。



金子九平次 「C譲」

その外、私設の団体として、帝展における朝倉一派の勢力に拮抗するために、昭和二年(1927)斉藤素巌(さいとうそがん)を中心とする一派が、帝展から離れて結成した構造社がある。


斉藤素巌 「タイス」

構造社は、のち斉藤素巌、日名子実三(ひなごじつぞう)の両者によってひきいられた感があったが、経済上の問題から、昭和七年(1932)に分裂し、日名子実三は帝展に出品するようになり、今や斉藤素巌を中心に、多くの会員、会友を擁して活躍しつつある。


日名子実三 「C譲」

また帝国美術院会員を辞した朝倉文夫は、多くの塾員を率いて毎年朝倉塾展を開催し、今もなお、我が彫刻界に一大勢力を擁している。

これを要するに、帝展は、台風一過の後の統制時代であり、帝展から分裂した朝倉塾、および構造社は、帝展系の作風をもって在野の団体を結成している。
これに反して、古く文展から分裂した院展の彫刻部は、もはや設立後二十年を経過し、その間に院派ともいうべき一種の特色を発揮している。
同様に、二科会の彫塑部も、団体としての勢力は大きくはないが、質において、新しい洋風の感覚をもって独自の境地を開拓しつつある。

そして、彫刻史上、前古未曾有の繚乱時代を現出しつつある。

八聖殿 横浜市
昭和八年(1933)



左より
清水多嘉示 「キリスト」
藤川勇造 「ソクラテス」
北村西望 「孔子」
田島亀彦 「釈迦」
朝倉文夫 「聖徳太子」
長谷川桝蔵 「空海」
長谷秀雄 「親鸞」
日名子実三 「日蓮」













十年間の八聖殿
安達謙蔵 著 八聖殿事務所発行
昭和十八年
(国立国会図書館デジタルコレクション)



三賢堂 (熊本市)
昭和十一年(1936)





田島亀彦 「菊池武時像」





朝倉文夫 「加藤清正像」






長谷秀雄 「細川重賢像」


朝倉彫塑塾所属





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Last updated  2021.06.02 22:22:58
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