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テーマ:法律(493)
カテゴリ:刑法
今まで「実行行為」を何気なく使っていたので、 当然何かする(=作為)ことのみが実行行為だとお考えになっていたかもしれません。 しかし、例えば「自分の子供が溺れているのを父親が発見したが、 父親は何もせずに立ち去ったので子供は溺死した」と言う場合はどうですか? 父親は何もしていませんが、これを無罪としてよいのでしょうか。 これは殺人罪にしたくなるでしょう。 しかし、例えば「子供が川で溺れていて、数百人の野次馬が集まったが誰一人助けなかったので子供は溺死した。 その野次馬の中に父親や母親など血縁関係のある人はいなかった」と言う場合、その野次馬数百人を全員殺人罪にするのは やりすぎな気がします。 このように、何もしなくても犯罪にすべき場合はあるのですが、 犯罪対象になる人があまり広がりすぎるのもやりすぎなので 一定の歯止めが必要です。 そこで、本来決められた義務があったのにそれをしなかった場合にのみ実行行為があったと考えることにします。 これは何かをする(=作為)義務ですから、「作為義務があったのに果たさなかった場合に実行行為がある」と言い換えてもいでしょう。 そして、本来決められた義務とは、法律上の義務のみならず、契約上の義務や慣習・条理(=一般常識上)の義務があります。 例えば、父親が子供を助けるのは民法820条で定められた義務です。 (第八百二十条 親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う) 契約上の義務とはお医者さんなどが考えられます。 お医者さんにかかるということはお医者さんと治療のための契約を結んだことになり、 お医者さんには治療の義務が発生します。にもかかわらず、治療を放棄して患者さんを死なせた場合は契約義務をしなかったことによる実行行為があるといえます。 慣習・条理(=一般常識上)の義務とは、籍は入れていないけど内縁関係にある人の連れ子に対する保護義務など誰もが納得できる義務があげられます。 別に内縁の人の連れ子には法律上も契約上も保護義務はありませんが、内縁関係にある人の連れ子なら誰もが保護すべきだと考えるでしょう。 しかし、何らかの義務、つまり作為義務さえあれば何もしないこと(=不作為)が実行行為となってよいのでしょうか。 例えば、一番初めにあげた例(「自分の子供が溺れているのを父親が発見したが、父親は何もせずに立ち去ったので子供は溺死した」と言う場合)で、そこは無人島で、何らの通信手段も無ければ、ボートも浮き輪も無く、しかも父親はカナヅチだったと言う場合を考えてください。 父親である以上、子供を助ける義務はあります。 しかし、父親にはなす術がありません。この場合には例え何もしなくても犯罪にするわけには行きません。 そこで、何もしないこと(=不作為)が実行行為となるには作為義務のほかにその義務を果たそうと思えば果たせる状態にあることが必要なのです。 さて、作為義務のほかにその義務を果たそうと思えば果たせる状態にあれば何もしないことを実行行為として良いでしょうか。 もう一度実行行為の定義を思い出してください。 実行行為とは、、「法律で守られた利益が侵害される恐れのある行為」であり、その恐れは一般人の判断を基準にすると昨日申し上げました。 つまり、作為義務があってその義務を果たそうと思えば果たせる状態であっても、法律で守られた利益が侵害される恐れがない場合には実行行為とする必要がありません。 ということは作為によって法律で守られた利益が侵害されるのと同じくらいの恐れが必要と言うことになります。これを学問上は「作為との構成要件的同価値性」といいます。 例えば、溺れている子供を見捨てることは、子供をナイフで刺すのと同じくらい死亡の恐れがあります。なので、泳げる父親が子供を見捨てるのはナイフで刺すという作為によって生命が侵害されるのと同じくらい生命侵害の恐れがあります。 では、まとめてみましょう。 不作為が実行行為となるには、 1、何かをしなくてはならない義務があること (=作為義務の存在) 2、その義務を果たそうと思えば果たせる状態にあること (=作為の容易性・可能性) 3、法律で守られた利益が作為によって侵害されるのと同じくらい侵害の恐れがあること (=作為との構成要件的同価値性) やはり、刑法はかなり理屈っぽいですが、これも冤罪をなくすためです。 頑張りましょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年08月19日 00時09分33秒
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