ファーストコンタクト(3)
H・G・ウェルズの『宇宙戦争』(1898年)における火星人を嚆矢として、これまでにさまざまな「宇宙人」が文芸作品には登場してきたが、もしも本当に「非・地球生物」が存在するとなれば、おそらくそいつは、上で見てきたように、われわれ「地球生物」とはまったく原理を異にする生化学体系に沿って生きているであろう。そのような「科学的想像力」の極致とも呼べるキャラクターとして、ロバート・L・フォワードの『竜の卵』に出てくる「チーラ」という宇宙人(?)を推挙したい。「チーラ」は《木星の五百倍以上の質量、二十キロメートルの直径、〇・二秒で一回転し、重力六百七十億G、鉄の原子核の大気をもつ地表温度八千度の回転する中性子星(パルサー)》の上に住んでいる《体長三ミリの殻のないアワビのような知的生物》である。「チーラ」の中性子星は、【紀元前50万年,太陽系から50光年離れた星域で】【誕生した】。超新星爆発にともなう重力崩壊の結果誕生したこの星は、【超新星爆発の恐るべきエネルギーによって,秒速30キロ,すなわち一万年に一光年というかなりな固有運動を与えられ】、【一路近くの隣人,太陽系へと向かった】。【そして2049年,探査宇宙船セントジョージ号は,<竜の卵>と名づけられたこの中性子星の周回軌道に乗り,観測を開始しようとしていた】。以上、『竜の卵』が手許にない(大阪の親許にある)ので直接の参照なり引用なりが出来ず、ネット上の著作物から引用させていただいた。《 》内は、「THATTA ONLINE」>ハヤカワ文庫SF『竜の卵』巻末の大野万紀氏による解説のページ【 】内は、永田健児さんの「BiblioStyle」>ロバート・L・フォワード『竜の卵』+著作リストのページからの引用である。「チーラ」くらいになってくると、「地球生物」のココロをもってしてはほとんど感情移入が不可能なくらいわれわれからは遠く隔たった存在であるはずなのだが、ところがどっこい、そんな「チーラ」も進化し、文明を築き、『竜の卵』では、探査船乗組員(もちろん地球人)とのコミュニケーションを図る。その続編の『スタークエイク』における「チーラ」に至っては、地球文明の成果である宇宙飛行技術を地球人から一瞬のうちに学び取り(なにしろ地球の何百万倍という速度で進化するわけで……)、それを継承発展させて、ついに、母星「竜の卵」の重力圏から脱出する独自技術を確立するに至る。あまつさえ、乗組員の一人の体内に抱え込まれたガン病巣を……(←後はこの2冊の傑作を読んでくだされ)。説明だけ聞くと荒唐無稽なようだが、この荒唐無稽を成立させる理屈のディテールというものがしっかりと書き込まれているんで、読者はいつのまにやら《体長三ミリの殻のないアワビのような》「チーラ」に親近感を覚え、彼らと地球人との交流に感動する、ということになる。作者のロバート・L・フォワードは、上記大野万紀氏解説によれば、《本職が科学者で、重力理論の専門家》の《博士》であるという。その学識に支えられてこそのディテールなわけだが、そういうディテールを読み込むうちに荒唐無稽の世界へと読者が拉致されていくところに小説の醍醐味はある。「チーラ」に声援を送りたくなるほどに読者をのめりこませるフォワード博士は、大した小説家なのだ。***SFは小説だけでなく映画においても大きなジャンルをなしている。地球人が「非・地球生物」と出会いを果たす「ファーストコンタクト」物は、「未知が既知となる」という「テーマの王道」の、そのまたど真ん中を行く、「キング・オブ・テーマ」である。映画に出てくる「非・地球生物」は、大別すると2種に分かれる。(1)見えるやつ と (2)見えない(あるいは不定形の)やつ である。小説と違って映画は「見世物」なんで、《体長三ミリの殻のないアワビのような知的生物》(しかも《〇・二秒で一回転》するような星に住んでいる)は登場させにくい。したがって (1)見えるやつ は、どうしても人間や他の「地球生物」に多少なりとも似てるやつが主体となってくる。「地球生物」に似るにもいろいろあって、われわれ(あるいはわれわれがペットとするような動物)に姿が似てるやつは、だいたいが善玉。われわれが怖いと思ったりおぞましいと思ったりするようなやつは、だいたいが悪玉ということになっている。姿が醜いのに実は善玉だった、ということにしたい場合には、誤解が解けていくプロセスを描くためにシークエンスを付け加えなくてはならず、尺(上映時間)を100分くらいに収めなければならない通常の映画シナリオとしては、そういう筋書きはちょっとつらい。そもそも、「非・地球生物」が善玉か悪玉かにはっきり二分されるというのはおかしな話で、そいつらの生きる原理がわれわれとは違っている以上、「最初から最後まで何考えてるのか分からんかった」というのが自然な「宇宙人」の態度ではあるまいか。しかしそんなことを言い出したんでは、地球人と異星人との間に「ドラマ」っちゅうもんが成り立たない。実を言うとこれは、出身文化を異にする二者(の地球人)の間に生じる「ドラマ」を創造しようとするときにも出てくる問題である。ひょっとすると、そういうドラマは、「一方の文化を『既知』とするフォーマット」の上でしか創造し得ないのではないか、というのがわたしにとって目下の最重要問題なんだが、すべての「ファーストコンタクト物」は、「当然ながら、地球側を既知、宇宙側を未知」とすることで、この問題をなんとなく不問に付しているっぽい。まあ、そういうややこしい問題はここでは措いとくとして、(2)見えない(あるいは不定形の)「非・地球生物」 が登場する「ファーストコンタクト映画」の話をしよう。異論が出るかもしれないが、『2001年宇宙の旅(2001: A SPACE ODYSSEY)』(1968年)こそは、「ファーストコンタクト映画、見えないやつ部門」の大傑作であると思う。見えないどころか、出てこない、という解釈が正しいんだろうが、これほどまでに見事に完成度の高い「見世物」を創造し、なおかつ「最初から最後まで何考えてるのか分からんかった(人類にとっての)他者」を提示(あるいは示唆)しつつ、しかも、「細部は複雑だが筋としては単純」という、力強いドラマを実現している映画は、他には見当たらない。この映画をわたしは、リバイバル上映時に初めて、東京の映画館で観た。大学生の時だ。場内には10数名の観客しかいなかった。観終わって席を立つことが出来ず、そのままもう1回観た。いったいに、SFファンというものは難儀なもんで、荒唐無稽な話に興奮したいくせに、いざ実際の作品にあたってみるとその荒唐無稽が「荒唐無稽だ」と言って難癖をつけたりする。その典型がゴジラヲタで、彼ら(というか、俺ら)としては、リアリスティックにすごいゴジラが見たい、と渇望するわけなんだが、ゴジラのうわさ話に終始するような映画ならともかく実際にゴジラを出してしまうとなると、よっぽどうまくやらない限りゴジラの凄みを表現することは難しくなる。そこへいくと『2001年宇宙の旅』では、なにしろ未知の存在が未知のまま終わってしまうんで、その意味ではまことにリアリスティック。普通なら「そんなの、ありかよ」「これでも映画なのかよ」と言われかねないところだが、それがそうならないのは、「未知を解明したい」という主人公・ヒトの「劇的欲求」が映画全体を貫徹しているからだ。『コンタクト』(1997年)もよくできた「ファーストコンタクト物」で、宇宙の彼方から送られてくる信号の傍受、その信号に載せて送られてくる「移動装置」の設計図、その装置に乗り込んで行われる「旅」、「旅」の果ての「コンタクト」が、非常によく考え抜かれたディテールの積み重ねによって説得力をもって描かれている。この映画では、最終段階に至っても「非・地球生物」は直接には姿を現さないが、その意志ははっきりとヒロイン(ジョディ・フォスター)に伝わるようになっている。そしてその意志には悪意が含まれていないように描かれる。「非・地球生物」が発するメッセージの分かりやすさ、というのが、実はSFとしての『コンタクト』の弱味である、とする考え方も成り立つ。「それを言うなら『チーラ』だって分かりやすいじゃねえかよ」という反論もあろうが、「チーラ」の場合には中性子星「竜の卵」から脱出しなければ種が滅亡してしまう、それを回避するには地球文明を学ぶ必要がある、という強い動機があった。まあ「種の滅亡を避けたい、というのは地球生物に固有の思想かもしれない」と考えるなら、「チーラ」の行動もわれわれの思考範囲を逸脱するものではなく、そこに作者の思考実験の限界があった、と考えることも可能だが、その「チーラ」に比べても、『コンタクト』の「非・地球生物」ははるかに「ものの分かるやつ」っぽくて、その分すご味に欠けている。***仮に、「一般生物世界」を「円」であるとする。今われわれは「地球生物学」という円周上の一点を所有し(かけ)ているに過ぎない。この一点だけでは円の全体を予測することは出来ない。もしも「タイタン生物」が発見されたなら、われわれは同じ円周上に別の一点を獲得することになる。どうやらタイタンにおける元素の組成は原初の地球とそれほどは違っていなさそうだから、「タイタン生物」も、あるいはわれわれと同じように炭素が主体のやつらなのかもしれない。つまり、「タイタン生物学」という一点は、「地球生物学」の一点に近接した位置にあるのかもしれない。もしそうだったとしても、有機物の組み合わさり方とか遺伝情報の伝達形式などの構造、論理のあり方が、「地球生物」とは異なっている可能性は高い。われわれは、獲得した2点の間にさまざまな「孤」を描いてみて、「一般生物世界」の「円」を想像するようになるだろう。そしていつかは「第三点」を捜しに、新たなミッションを送り出すことになるだろう。人類はかつてアフリカ大陸のどこかから出てきて地球上に散らばったと言われているが、永年の間に各地でその土地の風土に適応し、それぞれ独自の文化をもちながら発展してきた。大航海時代を経て産業革命が起こり、そこからさまざまな「ファースト・リコンタクト(再接触)」とでも呼べそうな出会いが実現された。「再接触」には苦痛がともなうことが避けられなかったが、それでもわれわれは、各地に固有の世界観を止揚して人類史的な世界観を打ちたてようと悪戦苦闘している。「タイタンに大興奮」するのは、人類を含むすべての「地球生物」を思考上の「内部」に区切れるような、そういう外部、そういう「他者」と、もしかすると「ファーストコンタクト」できるのではないか、少なくともその可能性をホイヘンスが示してくれるんじゃないか、と思うからである。そしてわたしは、そういうことならできるだけ長生きして、できるだけ知りたい、と思うのだった。