随筆・あっそう!里見発見伝
どもども。 開始からもうすぐ一ヶ月。 なんとか保っている自分を褒めつつ、今宵も房総里見氏を夢酔流の私見を交えながら、一緒に勉強していきましょう! ◆ ◆ ◆ 前回、鶴谷八幡宮から広がった三部作。 今宵は第二弾、「古河公方」をお送りします。 この名称は、これまでもしばしば登場しました。おさらいの意味を込めて、いま一度解説します。 古河公方とは……第5代鎌倉公方足利成氏が享徳の乱により、鎌倉から古河に本拠を移したことにより称した名称です。この背景も以前この場で申しましたね。 貞和5年(1349)、室町幕府は関東分国統治のために、もうひとつの〈東国幕府〉ともいうべき支店的機関である〈鎌倉府〉を設置しました。京都を都心、鎌倉を副都心と考え、プチ地方分権があったというイメージで夢酔は捉えております。 そのトップが、関東管領職です。 ちょっと待って、公方はどうした~~~そんな声が聞こえますが、順を追って説明しますね。 鎌倉府のトップとして最初に任じられたのは、足利尊氏の3男・足利左馬頭基氏。母親は長男で2代将軍・足利義詮と同じ赤橋登子です。兄妹の境遇は、早いか遅いかで、天地ほどの隔たりが生じました。それでもこのときの基氏は父にも兄にも従順で、東国支配のために尽力してきました。 代が変わりました。義詮のあとに将軍となったのが、3代将軍足利義満。基氏のあとの関東管領は、子の足利左兵衛督氏満です。この頃になって、鎌倉府側の足利一族は不満を覚え始めていきます。「従兄は代々将軍。だけど俺も子孫も代々鎌倉で燻るんだぜ。やってられっかよ」 そんな気分が募って、とうとう対立気分に発展していくのです。自らを鎌倉の将軍、鎌倉公方と私称し、対等関係をアピールするのです。しかし、このときの将軍は、足利一族で最大の権力を発揮した義満です。武力衝突がいい結果になる筈がありません。 結局、氏満はギリギリのところで我慢しました。 次の足利左兵衛督満兼は、応永6年(1399)に大内義弘が堺で挙兵した〈応永の乱〉に内々加担し、義満と対立します。室町幕府と対立しながら、ここでも直接衝突は回避されましたが、ますます険悪になっていったのです。 鎌倉公方4代目は、足利左兵衛督持氏。満兼の子です。この持氏のときに、とうとう幕府と武力衝突しました。おりしも幕府では4代将軍・足利義持、5代将軍・足利義量が病死し、次の将軍職が空席となってしまったのです。 俺がいるじゃないか!と自薦してアピールしたものの、それまでの対立関係は幕府宿老の持氏に対する印象を悪くしています。こいつにだけは、将軍やらせたくない!って空気があっても、不思議ではないですよね。幕府では出家した足利義持の三人の弟に白羽の矢を立て、神託、すなわち籤引きで将軍を決めたのです。こうして6代将軍・天台座主義円こと足利義教が登場しました。これが、幕府vs鎌倉府の対決のきっかけになったのは云うまでもありません。将軍になる条件として「万人恐怖」と後世に伝えられるほど、義教は徹底した反対派への弾圧や制裁を敢行しました。それは織田信長を彷彿させるほどに、徹底的にです。だから鎌倉公方への敵意は就任当初から抱いていたことでしょう。片や持氏に至っては、義教を敵視し「還俗将軍」と罵声すら浴びせています。当然、両者の決着は生死で決するものであり、かつ、完膚無きものとなりました。そして、幕府が勝ったのです。 持氏の遺児を担いだ結城氏朝の乱。夢酔のルーツを紐解くと、水戸藩に行着き、更にその先は下総にあたります。いまも本家は結城にありますから、この大乱は傍観視することなく過去に調べたこともありますが、足利ブランドは関東において大きなものだと判りました。結城氏朝の乱は、およそ一年ほど続き、もっとも幼少な遺児を除き絶やして終わりました。その数ヶ月後に、前代未聞の将軍暗殺事件が起き、義教は殺されました。こういう非業な個性や果ても、織田信長を彷彿させた将軍義教。 唯一の遺児は長じて鎌倉公方・足利成氏となりましたが、持氏を死に至らしめた関東管領(もとは執事と呼んだが、足利氏が鎌倉公方を称したのでこちらも称号をランクアップしたらしい)・上杉氏への怨恨は残りました。 そして、享徳の乱。 この享徳の乱のとき、室町幕府は成氏討伐を決めて今川範忠らを上杉氏の援軍として差し向けました。分倍河原の戦い・小栗城(筑西市)の戦い等、緒戦では成氏勢が有利だったが、結果として鎌倉を墜とされます。成氏は鎌倉を放棄し、下総国下河辺庄古河を本拠地としました。 享徳4年(1455)6月に古河鴻巣に古河公方館を設け、長禄元年(1457)10月に修復した古河城に移ったと、『鎌倉大草紙』に記録されております。これにより、鎌倉公方は古河公方となったのです。一般的には、古河公方をして鎌倉公方の嫡流とみなす考えであり、両方をあわせて〈関東公方〉と、学術的に呼ぶこともあるそうです。 鎌倉公方歴代をおさらいしたうえで、古河公方を俯瞰してみましょう。○ 初代 足利基氏【在職期間 1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)~1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)】○ 二代 足利氏満【在職期間 1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)~1398年(応永5年)】○ 三代 足利満兼【在職期間 1398年(応永5年)~1409年(応永16年)】○ 四代 足利持氏【在職期間 1409年(応永16年)~1439年(永享11年)】○ 五代 足利成氏【在職期間 1449年(宝徳元年)~1455年(康正元年)】 古河公方の時代と、里見氏の房総進出時代は、ほぼ足並みを揃えております。そのあたりは、里見義実を考察した項をもう一度読み返しておくんなせえ。 さて。足利成氏が鎌倉を捨て、新たな本拠地として古河を選んだ理由は、次のような考察をされています。1.経済的基盤がよい2.地理的条件に適している3.交通の利点(主に水利)に適している4.古来よりの戦略的要地 たぶん、足利家にとって1・2は、古今よりの支持勢力と結びつくうえで、古河はベストポジションだったのでしょう。3・4については、足利家ではなく、北関東経営上で必要不可欠な要素だったと、夢酔は独断しています。例えば3の水利。これは大量輸送の手段に用いる船舶に、大きな関与をしていたと洞察されます。すなわち、港湾施設を有していたのではないかと。古河には、渡良瀬川・利根川水系が密着していました。上流の渡良瀬川・思川は遡れば足利氏ゆかりの下野国足利荘や岩松氏・佐野氏や小山氏等の有力豪族拠点のある下野国と直結します。下流の太日川(現在の江戸川)は、古河公方御料所である下河辺荘に至るから、古河内部の物資大量輸送を可能とします。更に常陸川(現在の利根川下流、茨城・千葉県境部)水系を辿れば、印旛沼に面した佐倉を拠点とする下総国と結ばれます。そして、忘れてはいけないこと。当時の利根川は銚子ではなく江戸湾に流れていた、ここが重要です。江戸湾の制海権は関東支配の重要ポイント。そして江戸湾の出入口を抑えたのは……そう、里見氏。里見氏は水利を以て古河公方勢力と緊密な連携をしていたのではないでしょうか? 余談ですが、夢酔が連載小説として房州日日新聞に発表した「春の國」でも、古河公方との往来を陸路ではなく水路にしております。それは、当時の視点が陸地一辺倒ではなく多岐に及んでいることを象徴したかった表現です。小説ですから学術根拠はないにせよ、海軍力に長けた里見水軍が、北条の目をかいくぐり船舶を縦横無尽に操る想像は、楽しいことではないでしょうか。 あ、余談が過ぎて、紙面が。急がねば! 古河公方成立期、室町幕府は関東争乱の調停を試みています。当時の将軍は足利義政。悪妻・日野富子にふりまわされ応仁の乱でもいいとこナシの凡庸として後世の酷評著しい将軍ですが、一応、やることはやっています。日本史は敗者というか体制の外側には厳しい性質があるので、こういうことは伝わらないんですね。 享徳の乱の鎮圧軍を差し向けたとき、幕府はこれと同時に、旧鎌倉公方の血統とは別の、新しい関東の秩序をつくる方策を企てました。第7代将軍足利義勝の異母弟であり第8代将軍義政の異母兄でもある、足利左馬頭政知を、幕府公認の新関東公方として派遣したのです。しかし、足利成氏の勢力が強大なため鎌倉に入ることができず、そのまま伊豆堀越に居着いてしまいました。これが堀越公方です。 この幕府が行った「余計なお世話」は、次の功罪になりました。1.下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力の結束2.上野国・武蔵国・相模国・伊豆国 を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏勢力の結束3.結果として1と2の決定的な二者対立の構図確立 里見氏は1のなかで台頭していくことになります。そして、1も2もやがて内ゲバに発展し、もう収集不可能になっていくのです。その隙に割り込んで、やがては双方食い荒らしていくのが、北条早雲。 里見一族は北条氏との真っ向対決を続けた、関東有数の豪族として成長していきます。その頃には、古河公方家などは権力の象徴に過ぎぬまでに転落しておりましたが、里見も北条も、建前の主権者として足利氏を掲げて大義名分としたのです。 北条氏は血縁関係を構築し古河公方家を。里見氏も古河公方・小弓公方(古河より分裂)双方と婚姻で結びつきました。 最後に古河公方を俯瞰してみましょう。○ 初代 足利成氏【在職期間 1455年 (享徳4年、康正元)~1497年(明応6年)】○ 二代 足利政氏【在職期間 1497年(明応6年)~1512年(永正9年)】○ 三代 足利高基【在職期間 1512年(永正9年)~1535年(天文4年)】○ 四代 足利晴氏【在職期間 1535年(天文4年)~1552年(天文21年)】○ 五代 足利義氏【在職期間 1552年(天文21年)~1583年(天正11年)】 ◆ ◆ ◆(広告)少しだけ、まだヘルプ 夢酔の小説をベースとした劇団き楽座「萩原タケ物語」。3月に一件、依頼公演がほぼ決まったようで、これは大変有難いお話しです。小説家ではなく、舞台脚本家としての夢酔も、戸惑いつつ、万人受けしたことを安堵しております。 劇団き楽座では、今後の別演目を控えていることから、「萩原タケ物語」チームを確立するため、劇団員を募集しているとのこと。市民劇団ならではの気負いなき「き楽」を売りにしております。 興味のある方は、まず、ご一報ください。 殆ど主婦ばかりですが、老若男女は一切不問! 気楽な活動したい方、お声をください。☆ 劇団き楽座主催者 TEL&FAX:042-559-0470 それから。 萩原タケをもっと知りたい方。夢酔の話でよろしければ、講演、承ります。どしどしお声を掛けてください。早くもお声を頂けた団体さんの情報は、近くなりましたら公表もしくはご報告させて頂きます。 舞台のセット商品でも、ピンでも、どちらでも可です。こちらの連絡先も、劇団き楽座まで! 最近、思い出されたかのように、大人買いする方がいます。すばらしい!終わった小説がいつまでも尾を引いていく。これが、作品というものの重さなのかなと、近頃、夢酔は今更のように考えております。にほんブログ村