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おぢさんの覚え書き

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2020.03.15
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カテゴリ:読書
1月はブログ更新をしなかった。個人的に忙しかったこともあるが、福岡正信氏の『無』という本を読んだことが、その原因だった。



そこに衝撃的な思想を見出したわけでも無く、おぢさんの思想を根底から覆されたわけでもない。むしろおぢさんにとって、前々から思っていることであったり、少なくともすんなりと受け入れられる内容である。どちらかといえば当たり前、至極当然のことが述べられている。福岡氏の思想は目新しいものではなく、老荘の思想を現代に当てはめて考えているようなところが多い。老荘が旧約であれば福岡氏はキリストか。福岡氏は老荘の思想を蘇らせ先に往き、辿り着くべき到達点を示してくれた。福岡氏は横浜税関植物検査課の職を辞した1937年にはここに到達し、『無』第Ⅰ部を著した1947年には完成していた。


おぢさんが福岡氏を知ったのは、岩澤信夫氏の著書を通じて不耕起無肥料栽培の先駆者として認識したのが最初である。というわけで第Ⅲ部の自然農法から読み始めた。しかし、福岡氏の自然農法を取り入れるにしても、具体的な方法を細かいところまで真似しようとするのは無駄で、氏の手掛けた農園という環境に縛られた一事例だと了解された。寧ろ自然農法を選択させた思想を感得すれば、各々の環境にあった自然農法が自ずと生まれてくる。

『無』は第Ⅰ部 神の革命(宗教編)、第Ⅱ部 無の哲学(哲学編)、第Ⅲ部 自然農法(実践編)の3部に分かれているが、重要なのはⅠ部である。Ⅰ部が根本的な思想であり、Ⅱ部は解説であり、Ⅲ部は実践例である。
 無い。
 何も無い。
 何でもなかった。
 人間は価値ある何ものも所有してはいなかった。
p.Ⅵ 福岡正信『無Ⅰ神の革命(宗教編)』

福岡氏は人間の文明、知識、科学、社会ことごとくを無価値なものとして否定していく。おぢさんも人間たちのやることに元々不信の眼差しを向けてきたが、ここまで徹底はしていなかった。今まで人間を全体としては信頼し、科学、文明、政治、社会というものにわずかばかりの期待を抱いてきた。
福岡氏は1巻を費やして、無価値(物)「価値あるものは何もない」、無知(心)「人は何も知りえない」、無為(行為)「人は何をなしえたのでもない」と説いていく。思い返してみると、それは近代科学文明を憎む少年であったおぢさんが、直観的に感じていたことであった。そして、それは正しかったと今思う。
およそ半数の者は生き続けていればこの境地に辿り着く。彼らは自然に還ろうとする者である。また、半数の者は全く賛同しない。彼らは自然から離れようとする者である。これは性によって決まるのだろう。
児童教育に携わるおぢさんの親友から聞いた話では、子供たちははっきりと二つのタイプに分けられるそうだ。ゲームや動画サイトが好きな子供と外で土を触ったり動物や昆虫に興味を示す子供。人類は二つの種に分かれようとしている。
氏の言葉は伝わらない者には全く伝わらない。このことは本人も分かっていた。それでも氏は多くの本をものにしている。無駄だと知りつつも、言葉にせずにはいられないことが多かったのだろう。

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個々の人間は別として、人間全体の作り上げた文明を眺めてみる。

 醜悪。。。

おぢさん自身、醜悪な人間文明に毒されており、嫌でも人間と向き合っていくことは避けようがない。それでもう十分なのだ。それ以上に人間に関わる必要はない。
人間というものを信頼して今まで言葉を発してきた。言いたいことは言うべきであり。伝わる者には伝わると思い書き連ねてきたが、自然の孤児である人間よりもっと大きな自然を相手にしたいと思うようになった。
田んぼにいると、田んぼを這い回る虫の一匹のようになりたい、と思う。

今まで人間を相手にしなければいけないというような強迫観念めいたものがあったが、猿から人間となったときから反自然の哀れな孤児である人間と向き合う必要はないと今は感じる。

人類が自己の姿をふり返ったとき、そのときから人類は大自然を構成する一部ではなくなり、大自然から離脱した孤独な孤児へと転落したのである。
p.108 福岡正信『無Ⅰ神の革命(宗教編)』
​​
氏の本におぢさんの言いたいことは全て言い表されている。その氏が言葉は無用だと言うのであれば、おぢさんに言うべき言葉はない。

 ……だが書き終わってみれば、私は私のことすら書きえず、緑の一葉が語る哲学を伝えることはできなかった。
 やはり言葉に無言であった。
 書物は無用である。
 私は一切を投げ捨てて、表題に書いた。
 「無」と。
 無の中にすべてがある。
 無の一言、すでに十二分であった。
p.ⅩⅥ 福岡正信『無Ⅱ無の哲学(哲学編)』


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Last updated  2020.03.15 21:12:01
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Re:無(03/15)   なんだかね さん
「無」というブログは深いですね。
老子の無為自然、仏教でいう諦観を思い起こします。
ホモ・サピエンスはその社会性によって生き延び、言葉によって持続可能な社会を作り上げたのだろう、その「言葉」を捨て去れば社会性は消え失せ自然と融合するのかもしれない。
無為自然の中で自然と共生する、それに憧れる人も多々いるのも現実でしょう。
他方で、グローバリズムは社会の持続可能性を内部から壊し、カモとなる人々から搾取し、人々に憎悪(ヘイト)をもたらす。そのヘイトは他の民族や少数派に向かい、さらに社会を分断する。
こういう状況の中で、どのような生き方を選択するのか。年齢を重ねるに従い、やはり自然の恐ろしいくらいの力に圧倒され、自然に畏怖し、自然の中に帰ろうとするのかも知れませんね。
フィロソフィア、智恵を愛する哲学が必要だと感じました。 (2020.03.29 09:55:00)

Re[1]:無(03/15)   おぢさん さん
なんだかねさんへ

どうも、コメントありがとうございます。
確かに、アリストテレスが言ったように人間は社会的動物で言葉を使って社会に参加し、社会を成り立たせています。人間は基本的に群れを作る生き物なんですね。
であるならば、言葉を使って参加し続けるしかないじゃないかとも思いました。しかしながら、人間の群れが作ってきた文明、社会を見るに、無意味、無価値に思えるのです。科学も政治も根本的に信頼値しない。人間社会からは離れたいという感情が起きるのですが、本当にそれでよいのかという疑念は容易には消えませんでした。
人間は自己を認識し「おれは...」という観念を持った時から、救いようもなく反自然であり、地球上をどんなに引っ掻き回してみても、大自然からこぼれ落ちたちっぽけな存在でしかない、と認識するとその疑念は消え去りました。おぢさんが向き合うべきは田んぼの風水であり、山から出てくる猪だと思うのです。
おぢさんはすでに人生の半分以上を洞窟中の人間という群れの中で言葉を叫んで来たのですが、仲間の群れにはもう興味がないのです。
もし明日仲間が核戦争が起こすなら、今日田んぼで虫たちと戯れたいのです。
未だ、自動車のエンジンをふかし、コンピューターを操るというおぞましい反自然の生き物ではありますが、息を引き取るときには虫の一匹のように自然の生き物になりたいと願うのであります。 (2020.03.29 23:48:01)

Re[2]:無(03/15)   なんだかね さん
おぢさんさんへ
遅ればせながら「人新世の「資本論」」を読んでいます。全部を読んだわけではないのですが、おぢさん様が書かれていたこと、今の資本主義の矛盾、これらに対する回答が、マルクスにあったのではないか、そう思って、1年以上も経ちますが、投稿させていただきます。

ここからは、「人新世の「資本論」」の引用です。

************以下引用*****************
マルクスの没後にエンゲルスが編集した「資本論」第三巻の「地代論」のなかで、マルクスが資本主義のもとで土地利用の非合理性について述べた箇所がある。

 土地-共同の永遠の所有としての、交代する人間諸世代の連鎖を譲ることのできない生存および再生産の条件としての土地-の自覚的、合理的な取り扱いの代わりに、[資本主義のもとでは]地力の搾取と浪費が現れる。

 資本主義は自然科学を無償の自然力を絞り出すために用いる。その結果、生産力の上昇は略奪を強め、持続可能性のある人間的発展の基盤を切り崩す。そのような形での自然科学利用は長期的な視点では、「搾取」的・「浪費」的であり、けっして「合理的」ではない。
 そう批判するマルクスが求めていたのは、無限の経済成長ではなく、大地=地球を<コモン>として持続可能に管理することであった。それこそまさに、リービッヒやフラースも求めていた、より「合理的」な経済システムの姿である。
 そして、そのような科学的要求が、資本主義の不合理さを暴露し、その正当性の「危機」をもたらしているというのである。
************以上引用*****************

 自然を食い尽くし、人間を食い尽くした上で、利益を追求する資本主義。その露骨な姿が現れたのが、ミルトン・フリードマン流の市場原理主義を追求してきた1970年代以降の先進国の姿ではないでしょうか。
それに対し、「コモン」を重視すること、宇沢弘文の言う「社会的共通資本」を重視することで新たな社会が現れるのではないか。
このブログに書かれているように、経済成長という人間の欲望に屈した考えではなく、持続可能な社会を実現するためには、資本主義から決別し、経済成長をしない循環型の定常型経済を求める必要があると強く感じました。 (2021.05.13 20:06:02)

Re[3]:無(03/15)   おぢさん さん
なんだかねさんへ

お久しぶりです。永らく返信もせず失礼いたしました。土地の扱いは色々ことで、色々な意味で根本的な問題の原点だと私も思います。究極の生産手段だから当然といえば当然です。
卑近の問題ですが、農家のせがれでもない限り成人一人分とされる一反の農地さえ持たずに日本人はうまれなければなりません。下手をすると、自分の住む土地さえ持たず(借家、担保付家)に生まれなければなりません。生きてる間それくらいの土地は貸し出されるようにしなければ日本人は減る一方でしょう。そうかと思えば農家のせがれは面倒を見れない農地に頭を抱え、いずれ耕作放棄地は自然に帰るという、そう悪くもない展開が日本中で起きています。(続く) (2022.05.18 22:24:05)

Re[3]:無(03/15)   おぢさん さん
なんだかねさんへ

(続き)昔ある人がおぢさんに言いました。「資本主義は人間のより豊かになりたいという本性に根ざしているのに、社会主義はそれを否定するからだめだ」。おぢさんも資本主義は人間という反自然の存在に自然な優れたシステムだと思います。一方でのんびりしたいという欲望を完全に無視しています。お陰で、モモの時間どろぼうに奪われ、余裕を失い。子供を産むどころか、自分を殺す始末。恰も急いで仕事をしている事が善で、休んでいたりのんびり働くのは悪のように思う集団狂気の世界が全く持続不能なのは出生率が物語っています。
ちっぽけな存在である人間が自然を破壊することは不可能で、破壊しているのは自分自身である事を自覚できるならば少しは望みがあるかもしれません。 (2022.05.21 21:11:59)

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おぢさん@ Re[3]:無(03/15) なんだかねさんへ (続き)昔ある人がお…
おぢさん@ Re[3]:無(03/15) なんだかねさんへ お久しぶりです。永ら…
おぢさん@ Re[1]:土器-編年(02/14) 上毛野形名さんへ 長いこと返信もせず失…
なんだかね@ Re[2]:無(03/15) おぢさんさんへ 遅ればせながら「人新世の…
上毛野形名@ Re:土器-編年(02/14) はじめまして。 記事中の「土器の編年」…

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