カテゴリ:読書
1月はブログ更新をしなかった。個人的に忙しかったこともあるが、福岡正信氏の『無』という本を読んだことが、その原因だった。
そこに衝撃的な思想を見出したわけでも無く、おぢさんの思想を根底から覆されたわけでもない。むしろおぢさんにとって、前々から思っていることであったり、少なくともすんなりと受け入れられる内容である。どちらかといえば当たり前、至極当然のことが述べられている。福岡氏の思想は目新しいものではなく、老荘の思想を現代に当てはめて考えているようなところが多い。老荘が旧約であれば福岡氏はキリストか。福岡氏は老荘の思想を蘇らせ先に往き、辿り着くべき到達点を示してくれた。福岡氏は横浜税関植物検査課の職を辞した1937年にはここに到達し、『無』第Ⅰ部を著した1947年には完成していた。 おぢさんが福岡氏を知ったのは、岩澤信夫氏の著書を通じて不耕起無肥料栽培の先駆者として認識したのが最初である。というわけで第Ⅲ部の自然農法から読み始めた。しかし、福岡氏の自然農法を取り入れるにしても、具体的な方法を細かいところまで真似しようとするのは無駄で、氏の手掛けた農園という環境に縛られた一事例だと了解された。寧ろ自然農法を選択させた思想を感得すれば、各々の環境にあった自然農法が自ずと生まれてくる。 『無』は第Ⅰ部 神の革命(宗教編)、第Ⅱ部 無の哲学(哲学編)、第Ⅲ部 自然農法(実践編)の3部に分かれているが、重要なのはⅠ部である。Ⅰ部が根本的な思想であり、Ⅱ部は解説であり、Ⅲ部は実践例である。 無い。 福岡氏は人間の文明、知識、科学、社会ことごとくを無価値なものとして否定していく。おぢさんも人間たちのやることに元々不信の眼差しを向けてきたが、ここまで徹底はしていなかった。今まで人間を全体としては信頼し、科学、文明、政治、社会というものにわずかばかりの期待を抱いてきた。 福岡氏は1巻を費やして、無価値(物)「価値あるものは何もない」、無知(心)「人は何も知りえない」、無為(行為)「人は何をなしえたのでもない」と説いていく。思い返してみると、それは近代科学文明を憎む少年であったおぢさんが、直観的に感じていたことであった。そして、それは正しかったと今思う。 およそ半数の者は生き続けていればこの境地に辿り着く。彼らは自然に還ろうとする者である。また、半数の者は全く賛同しない。彼らは自然から離れようとする者である。これは性によって決まるのだろう。 児童教育に携わるおぢさんの親友から聞いた話では、子供たちははっきりと二つのタイプに分けられるそうだ。ゲームや動画サイトが好きな子供と外で土を触ったり動物や昆虫に興味を示す子供。人類は二つの種に分かれようとしている。 氏の言葉は伝わらない者には全く伝わらない。このことは本人も分かっていた。それでも氏は多くの本をものにしている。無駄だと知りつつも、言葉にせずにはいられないことが多かったのだろう。 個々の人間は別として、人間全体の作り上げた文明を眺めてみる。 醜悪。。。 おぢさん自身、醜悪な人間文明に毒されており、嫌でも人間と向き合っていくことは避けようがない。それでもう十分なのだ。それ以上に人間に関わる必要はない。 人間というものを信頼して今まで言葉を発してきた。言いたいことは言うべきであり。伝わる者には伝わると思い書き連ねてきたが、自然の孤児である人間よりもっと大きな自然を相手にしたいと思うようになった。 田んぼにいると、田んぼを這い回る虫の一匹のようになりたい、と思う。 今まで人間を相手にしなければいけないというような強迫観念めいたものがあったが、猿から人間となったときから反自然の哀れな孤児である人間と向き合う必要はないと今は感じる。 人類が自己の姿をふり返ったとき、そのときから人類は大自然を構成する一部ではなくなり、大自然から離脱した孤独な孤児へと転落したのである。 氏の本におぢさんの言いたいことは全て言い表されている。その氏が言葉は無用だと言うのであれば、おぢさんに言うべき言葉はない。 ……だが書き終わってみれば、私は私のことすら書きえず、緑の一葉が語る哲学を伝えることはできなかった。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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