カテゴリ:農苑より
今週は種まきをした。 ハクサイ3反分の種を育苗トレーに。 おおよその試算で6000株くらいだったので、少し多めの6200株。 6日(水)早朝に種を総勢5人でおろしてゆく。種をまくときに雑念は禁物。 その種のことだけに集中しなければならない。 どの農作業でもそうだが、とかく作業をしている時は違うことを考えがちだ。 しかし、それでは今相手をしている、土・草・野菜なんかに失礼にあたるのかもしれない。 大げさにいえば浮気をしている、みたいな。 この種まきのときに、本当に種のことだけを考えてやれるのならば、思い入れもちがうだろうし、立派に育ってくれそうな気になってくる。 常に雑念と格闘しながら黙々と種をおろしてゆく。 今回、この種をおろしたトレーには、笹の生えているような所のなるべく肥えている表土、そしてその20分の1の割合で生ゴミ堆肥を混ぜ込んだ。 腐葉土だけならば堆肥もいらないのだが、腐葉土を掘り出して、多量に持ち帰ってくる手間を考えれば、今回は近場でなるべく肥えている地面の土にしようということになった。 生ゴミ堆肥はこの美深町の知的障害者施設で作られているものを使う。彼らとは今後いろいろな面で協力し合えそうだ。なによりも彼らのような心が素直な人は農が一番合うだろう。 何か大きなことをやろうとか機械でグワッとやろうとか、特に北海道ではそういうことを考えてしまいがちだ。しかし、例えそういうことをして、早く出来上がったようにみえる地面では、作物は化学肥料でも入れない限り、簡単には育たないだろう。 センター右に1畝ばかりユンボで土地をひっくり返して早急に作った畑があるのだが、ここの作物の生長は良くない。 もちろん、米ぬか以外特に何も入れなかったので肥料が足らないといえばたらないのかもしれない。そして、もともとが学校の運動場で畑には不向きだという事実もあるだろう。しかし、何かそれ以外に育ってくれない理由がある気がしてならない。 やはり、色々な雑念を捨て、土や草と真剣に向き合ってみることが必要なのではないだろうか。そして、それができる可能性をもっとも持っている人たちが彼らなのかも知れない。 種まきをして2日目の8日(金)。 少しずつハクサイは芽を出してくれた。 水撒きは土が乾いたら一日に何度もやる。この地は晴れた日はやたら乾燥する。だから苗から目が離せない。 ちなみにこの種は、福井の農苑で種取をしたもの。 種も生き物、そして遺伝子を持っている。だから必ず、前代、前々代・・・からの情報が脈々と受け継がれているはずだ。我々の思いも、その情報の中に入ってくれているのかもしれない。 そして、種取を何度か繰り返すうちに、種もその土地の気候・風土・土質なんかにも慣れてくる。福井と北海道では気候が全く違うが、同じ農法で育てた種。そして、このハクサイの種をまた取って、来年まくことで、またこの地に合った種ができてくれる。 週後半からはセンター右の地面の造成に取り掛かる。 ここに約7.2×19メートルくらいのハウスを建てることになった(もちろんビニールを張るのは来年)。 地面は半分ほどが笹薮、そして四分の一ほどは牧草、残りは先ほど述べた畑。笹のある地面は本当に肥えている。ただ厄介な問題が、根が張っているということだ。 今回の畑造成の方法は、そういう笹薮であった地面をどううまく活用するかという一つの方法なのだが、機械を入れるやり方だ。(もちろん機械を入れないやり方もある。) それは 一.笹・草を根元ギリギリまで刈ってやる。 二.表土を薄くユンボの爪ではがす。 三.それをふるいにかけて石などを取り除く。 四.その土に堆肥と米ぬかを混ぜる。 五.再び、元あった地面にその土を還す。 土をそれだけいじくるということには本当に慎重にならなければいけない。 本当はできるだけ機械を入れたくはないのだが、もし機械を入れるとしたら、こういうやり方ならば、うちのような農法でも作物は十分育つことができるという一つのケースにしたいのだ。 その地面の中に木が幾つかあった。松3本とヤナギ1本。うち比較的大きな松1本は移植することにした。時期的には移植に適してはいないのだが、松には目をつぶってもらうことにした。 残り2本の松は根元から切って、葉はお風呂とお茶としていただくことに。そして残りは薪として利用させてもらうことになるだろう。ヤナギは薪として、枝は支柱などに利用させてもらう。 木を切る時も本当に慎重にやらなくてはいけない。 ぞんざいに扱ったり、やたらめったら切ったりすると、彼らの怒りを買うことになる。 切ることになったとしても、そこでその木対しての感謝の心があるならば、彼らは喜んで我々の味方になってくれるのだ。 人間はそういう生物に対しての心・想いを忘れてしまっている。 一つの例をあげるとするならば、建物を建てる時に神主さんが来て行う地鎮祭。今は形骸化してしまったが、あれだって一昔前までは非常に重要な意味のある行事であったはず。そこの土地の神様に対する祈りの心であったはず。 そこまで大げさに儀式を行うことはしないまでも、感謝の心で生物に接することは誰にでもできるはずであろう。そして、それはごくごく当然のことであったはず。 しかし、現代文明がそれを遠ざけてしまった。 9日(土)。レーキ・ジョレンで地面を平らにして一の作業が完了。 来週はできれば五まで終えたいものだ。 by Yasu お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.08.10 20:15:36
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