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テーマ:国を憂いて(3492)
カテゴリ:憂国の嘆き
昨日のブログの最後の部分で
「考える」ということは、「適切な問題を自ら作る」という作業であるが、「問題を問題とも言えない」空間では、適切な問題意識が生まれないのである。 問題意識が芽生えないから「課題」も見えてこない。 「課題」が見えてこないから、「解決法」も見えてこない。 このように書かせていただいた。 「考える」というもののトリガーは、「必要に迫られて」というものと驚きや感動、感激、知識欲、情報欲などの「好奇心」にある。 そして、これが最も重要な点であると思うが、自分の頭で考えるというエネルギーは、「問題を解決したい」という熱情にある。 だからこそ、「関心のない事柄」を自分の頭で考える。のは困難なのである。 自分の頭で考えるにおいて 「経験」を通してわかること 「知恵」を通してわかること 「知識」を通してわかること が元になる。 「考えたこと」はアウトプットであるが、その作業にはインプットが必要だということである。 インプットの量が増えれば、当然それまでの考えが、誤りであったという場合もあるだろう。 さらには、自らの「経験」「知恵」「知識」を駆使してもわからない場合が出てくるだろう。 その場合に大切なのが「知的誠実さ」である。 「間違いは素直に認めること」「わからないことは、だれかの経験、知恵、知識を借り、補うこと」である。 このように「考える」「考察」というものを分解してみると、「疑問」あるいは「質問」というものには、その人の品性も、経験も出てくる。ということがわかる。 ここで「もりかけ問題」について、例をあげてみよう。 現状一部の野党やマスコミは 「総理と関係者が親しかった」ということを最大の切り口として、「利権を付与したのではないか?」と疑っているのである。 多少、政治家なる職業人に接する機会を得た人は、確かに利権を求めて近づくような輩も少なくはないが、真に支援しようという場合、「自らの欲求」を政治家には求めない。それは政治家に迷惑になるからだ。という自制心が働くからである。 私は、「公」に関しては政治家に求めることがあるが、私的に何かを欲求したことはない。(まあそれほど親しくはないと言われればそうなのだろうが。。。) そのような「経験」「知識」があれば 政治家と近しい関係にある=利権 という構造がすべて正しいもの。とは見えてはこない。 しかしそれがないと「連想」「想像」は、「面白い」方に傾いていく。 「面白い」ということが、「政治における本質」「政策に関する要点」にも向くというのであれば、私はそれもまた、きっかけとして、認めることにやぶさかではない。だが、そちらのほうには関心を持たないのである。残るのは「政治家は汚い」というイメージだけであろう。 このような「疑問」あるいは「疑念」を抱いているということは その人本人が、「卑しい人間」であるか自分の周囲には「卑しい人間」しかいないのだ。 ということを表していることになる。 イエロージャーナリズムならいざ知らず、野党とはいっても国会議員である以上、そんなことがあるはずはないことくらいは、自ら分かっているはずである。 それを「疑念だ」「疑惑だ」と叫ぶことが政治家とはそのような卑しいものだ。政治家に近づくのは利権を求める類だ。ということを言っているということに気が付いてもらいたい。 これでは、「政治」というものにますます国民は、関心を持たなくなり、積極的に成人遺産化しようという意欲を奪っているようなものである。 この手の質問をする人は「他人を貶めたい」という願望を満たすことを「目的」としているのであろうが、それは国民の政治家に対する「不信感」を増長させる。というよりもマイナスのイメージを確定させるという自らの首を真綿で締める愚かな行為であるとなぜ気がつかないのか? 私には本当に理解しえない。 つまりは国民は「政治について考えなくなる」ということである。 これは政治家によって「衆愚」が作られる。 ということを顕著に示す。ということである。 「衆愚」の先に待ち受けるのは「独裁」である。 ポピュリズムに関しては「衆愚」がそのような「政治家」を作り出すのだ。と考える方が少なくないであろうが、そうではない。「卵が先か、鶏が先か」ではなく「愚かな、自らが大衆化してしまった政治家」こそが「衆愚」を作り出すのである。 それは、大衆というものが「嫉妬心・欲望」を求める傾向があるからである。 だからこそ「世論」なるものは決して「公平」なものではない。のである。 「スキャンダル追及」しかも、「豚は太らせてから食え」と言わんばかりに、それまでは「よいしょ」していた政治家が、それなりのネームバリューを得ると、今度はバッシングに回る。つまりは国民は「堕ちた英雄」を好む。というものでしかない。 これは、芸能人も同じである。 「今までは何だったのか?」と思えるほどの掌返し。をイエロージャーナリズムは好む。そしてそれは「需要があるからだ」と言いつのるのである。 「政治家はそんなもんじゃない」 なぜ、野党議員は、堂々とできないのであろうか??? 「政治家は捨てたもんじゃない」 こう国民に思わせることが、「政治」というものにも感動や感激という「考える」トリガーを引くことになるのではないだろうか。。。 明日も続けたい。 文責 上田 和哉 現状把握・原因究明・対策の立案・提案 質問・疑問はその人の感性が出る。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.11.14 12:30:11
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