「自分の頭で考える」
これをテーマとして、ブログを書こうと思ってから、約二カ月近く経っているが、実際のところ、どうしても纏まらない。
それでも何か書かなければ、「消化不良」に陥った感じが消せない。
自分の中で纏まってすらいないものを「公」に晒す、ということは、失礼なことであろうが、書いていくうちに、何か「気付く」こともあるかと思い、とにかく書き始めることとしたい。
「自分の頭で考える」
よく用いられるフレーズではあるが、実際やろうとすると、これが困難を極める。
なぜなら、そこには「予定調和」であったり、すでに「解答が用意されている」ものが少なくなく、結局は自分で考えているのか?考えさせられているのか?分からなくなるのである。
「自分の頭で考える」
これは、重要なことでもあるが、そこにはかなりの危険性、「ご都合主義」という落し穴が待ち受けている。ということでもある。
実際に「考える」ためには「知ること」つまりは「知識」(インフォメーション・データの集積)、「経験則」が必要となる。
「生兵法は怪我の元」
とも言われるように、「知る」ことは重要なファクターなのであるが、この「知ること」ということが、「今までの知識の上塗り」に過ぎなかったり、「思い込み」というものだったりすることが少なくない。そして経験などといっても、人間それほど「経験」できるものではない。
従って、自分の都合のよいように情報を取捨選択し、さらに自分の少ない経験に基づいて、自分が納得できる「結論」を「予定調和」あるいは「そのような解答になるように都合よく知識を運用、引用する」というものになりがちである。
特に年齢、経験を重ねていけば、「いまさら聞けないこと」も出てくる。さらに「自らの無知を知る」というつらい作業にも直面しなければならない。「知る」ということは、「新しい知識」をえること、つまりは知らなかったということを自覚する、それに直面するという面倒で厄介な作業でもある。
となれば、いっそのこと「誰それが言っているように」というところでお茶を濁してしまいかねない。
その方が責任はなくなる。
現在、インターネットの発達により、「情報の収集」という面では、それ以前と比較し、かなりの「量」が得られる社会となっている。しかし「情報の量と秩序の関係」つまりはエントロピーの法則に沿って見てみれば、情報量の増加は秩序の破壊という側面を持っている。
特に玉石混交、情報の裏鳥がなされていないもの(’都市伝説のようなもの)が溢れる中で、「情報の質」という面にこだわれば、以前よりも「収集が困難」な時代とは言えるだろう。勿論、今後このネット空間にも「秩序」「規則」というものは確立されていくと思われるが、現状においては情報伝達の「技術」の進歩に「秩序」が追いついていない。過渡期と思われる。(その過渡期はあと何年、あるいは何十年続くのかはわからない)
従って、それなりのリテラシーを持つ必要がある。
「かぎわける力:とでもいうのだろうか。。。
それでも、素人は素人であるということを、まず自覚していおくことは必要である。変な知識によって「決定が左右されかねない」。しかし、自らの決定には、リスクが伴う。責任がある。ということである。
私は、ある一定量に達すれば「情報の遮断」というのも一つの選択肢であると考える。
「自分が納得したいだけ」であれば、まあそれほど問題はないだろうが、これを拡散することは、自らもお先棒を担ぐという責任があることを少なくとも自覚してもらいたい。その上で、主張する。となれば、それなりの表現になるはずだと私は思う。
「考える」とは何か?
言ってみれば「適切な問題」を自ら作る作業である。そこから「課題」を発見できれば、「考察」というものは深まっていく。
「考察」するためには、「他の意見に耳を傾ける」ことが重要であり、そこに「一致点」「相違点」を発見するということである。
わが国では「自己主張する」ということが、どうも「他人の意見を聞かずに、自らの主張のみを開陳すること」あるいは「反対」「非難(誹謗中傷も含めて)」と矮小化しているように思われるが、「反対」などというものは、自己主張とはとても言えない。
相手がある。ということを忘れてはならない。
「反対」の中には当然「評価する点」「一致点」があるにもかかわらず、そこには目もくれずにただ只管「相違点」ばかりをあげつらう。こうなってしまえば「非難のための主張」でしかない。「自分の頭で考える」ということは、「本当にそうなのか?」を考えることでもあるため、「自らと異なる意見」に耳を閉ざしてはならないのである。
「自分で考える」ということは
「なぜそうなるのだろう?」「本当にそれは正しいのか?」
を考えることでもある。
従って、そこには「こうなる理由」というものを発見しなければならない。
理科的な「仮説」を立て、「考察」を行い、「結論」を導き出す作業全般を言う。(仮説は間違っていてもよいのである、仮説が間違っていた。というのも十分に考察したものと言える。)
「考察」という作業を経ないものは「考える」とは言えないのである。
「誹謗中傷」に「考察の形跡」がないのは、「考えていない」からである。
人文科学系と自然科学系の学問では、この考察が全く異なる。
人文科学系は、現在ある「現象」「データ」を説明できればよい、のに対して、自然科学系では、その逆が成立しなければならないのである。従って、自然科学系では「答えは一つ」となる。だが、人文科学系では、「答えは一つ」となることはほとんどない。と言える。
現状、我が国のテレビなどを見ていると、どうも、そうではなく「こう考えなければならない」「実はこれが正解なのだ」「これが原因だ」といった単純な情報番組が並んでいる。
これは、大衆社会というものにおいては、必然と言えるものである。
なぜなら、大衆とは「皆と同じことを喜ぶ」という性格を持つ人々だからである。
だから、「大衆受け」するのである。
「こんな意見もある」「あんな意見もある」、結局何が正しいか分からない。ということは、大衆にとって不安を掻き立てるだけである、だからこそ、「原因はこれだ」と唯一の原因を求めようとする。視聴率を考える商業主義に染まりきったテレビメディアというものが、この「大衆受け」の傾向が顕著であるのは、実は当然なのである。
そして、我が国には、そう考えさせるに足る「戦後日本社会」という要素が加わる。これは、メディアが「非難」「監視」の対象とするのは、「政権」及び「官僚」であり、これらは「悪いことをする連中だ」と基本線が引かれているのである。従って、「政権はひどいことをしようとしている」「官僚はこんなひどいことをしている」などと言われるると「そうかもしれない」「そうだろうな」「きっとそうだ」という世論が形成されていくのである。
これは、我が国の戦後において「我が国政府が誤っていたから、戦争が起き、国民は塗炭の苦しみを味わった」「戦争は最悪のものだ」という一つの考え方にすぎないものが、あたかも「アンタッチャブル」なもの、疑問すら呈してはならない「タブー」とされてきているからでもある。
「民=善」「公=悪」などという考え方は、まさに、このような謝った「知識」から成り立っている。と言える。
さらに言えば、わが国民は「祖国のため」に尽くしたのであるが、「敗戦」という結果により、「報いられることがなかった」従って「祖国のため」などに同調してはならない。というこれはきわめて感情的なものではあるが、それなりに、当時の人々の感情を代弁するものとなっている。
従って、我が国では「祖国のため」を考える。という作業を極めて困難にしている。
このようなケースにおいて、最も有効的な手段は「妄想」でしかない理想論と「綺麗事」である。これさえ唱えていれば、とにかく、世間から非難されることはない。のである。
さらに「祖国のため」という国家の大事中の大事よりも、政治家の行うべき営為が、国民の嫉妬心や欲望に照準を当てたものにしかならなくしている。「世論に従うのが政治」「世論の言うように政治を行うのが民主主義」などという過ちは、我が国においてはかなり根深いものである。
私は、このブログを通じて何度も言っているが、民主主義とは、「国民の感情、感傷に過ぎないもの」をいかに薄めていくのか、ハッキリ言ってしまえば、いかに世論に従わないのか。ここが運営の要なのである。
「感情にすぎないもの」に左右されて碌なことはない。古くは「日比谷焼打ち事件」「安保闘争」など数えてみれば、過ちのほうが多いのは明らかである。
だからこそ、ほとんどすべての民主主義国家は、「間接民主制」あるいは「二元代表制」を採用し、主権者教育として「祖国というものの大切さ」を教え、「私より公が大切な時がある」ことを教育。つまりは強制的に学ばせるのである。
我々は「祖国」を考えるよすがを奪われている状況。
と言っても過言ではないだろう。
「考える」というよりも「思い込まされている」「信じ込まされている」という壁を破壊できないでいる。私は、故江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」とは、「考えさせれている」という空間を指しているものであると思う。
「結論があらかじめ決まっている」ということである。
そして情報は、その結論において都合のよいものだけが、ピックアップされて伝えられる。
その知識からは、「決まった答え」しか出てこないようになっているのである。
「全体主義社会」シナや北朝鮮などを想起すれば、いかにそのような社会が「歪」で「実は空恐ろしいもの」であるかがわかるだろう。
「情報統制」とはそのようなものである。
わが国では、なぜか左翼系が、「情報統制」をとう専売特許を持っているかのようにふるまっているが、彼らの姿勢を見れば、どちらが「情報統制」を好むのかがわかる。何しろ、彼らの望ましい結論に至らないものは、「排除」すべきと考えるのは、彼らのほうである。
「考える」ということは、「適切な問題を自ら作る」という作業であるが、「問題を問題とも言えない」空間では、適切な問題意識が生まれないのである。
問題意識が芽生えないから「課題」も見えてこない。
「課題」が見えてこないから、「解決法」も見えてこない。
のである。
この問題意識から課題を作り出し、解決法を見つけることが「考える」ということなのである。
そして「解決法」については「答えは一つではない」ということである。
だからこそ、各々が自らの頭で考えてみる作業が極めて重要なのである。
企業の会議というものは、「課題」そして「解決法」「克服法」をいかに見出していくのか。
ということを考えれば、わかりやすいのではないか。。。
「あれが問題だ」「これが問題だ」という問題点をあげつらうだけでは、不毛な会議でしかない。
その問題を「克服可能な課題」として浮かび上がらせることが重要なのである。
「問題点をあげつらう」だけというのは所詮「できない言い訳」でしかないのである。
やはりどうも、纏まりに欠けるが、明日も続けたい。
文責 上田 和哉