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カテゴリ:歴史
私:赤松隊長の命令によって渡嘉敷島で集団自決があったと断定した資料を著者が辿っていくうちに、原点は沖縄タイムスによって刊行された「沖縄戦記・鉄の暴風」だということが分かる。 これが1950年8月15日に発行されている。 その20年後に著者が渡嘉敷島を訪れ、この記事に関係する島民を精力的に取材する。 ところが驚いたことに、この「沖縄戦記・鉄の暴風」では島民インタビューすらしていなかったことが分かる。 ウソが次第に明らかになる。 A氏:20年間、きちんと調べもしないで、日本では、教科書を始めとして、軍の命令が勝手に一人歩きをしていたんだね。 赤松隊は島の防御のための軍隊ではなかったの? 私:これもおかしな話で、渡嘉敷島の赤松隊は、島の防衛目的の軍隊ではないのだよ。 ベニヤ板で作った船で敵船に体当たりして、自爆する特攻隊だったんだね。 だから、赤松隊長も26才と若く、部下は当然、二十歳前後だね。 敗戦の前年の1944年9月に行く先も知らずに本土を出発し、月末に渡嘉敷島に着く。 自爆目的の軍隊だから、陸上戦をする武器や設備はあまり持っていなかった。 島を守るための他の日本軍は、その後、米軍上陸の前に沖縄本島の補強のために引き揚げていた。 A氏:特攻出撃をいつやるかということでモタモタしているうちに、チャンスを逸し、米軍が上陸してきたというわけか。 私:だから、陣地の壕を掘る道具もないから、後に米軍に攻撃されたとき身を守るために、隊長自ら鉄兜で土を掘る状態だったという。 A氏:集団自決は軍の命令でなかったのかね? 私:「沖縄戦記・鉄の暴風」によると、米軍の襲撃を受けてから、赤松隊は地下壕内で将校会議を開き、その場で「最後まで戦うが非戦闘員が邪魔なので、自決させ、残った食料を確保して、最後の一兵まで戦いたい」と赤松大尉が主張したという。 これを聞いた沖縄出身の副官の知念少尉は悲憤のあまり、慟哭し、軍人である身を痛嘆したとあるという。 A氏:沖縄では苗字が知念というと武士階級出身だというね。 私:著者が、知念氏にインタビューしたら、地下壕も将校会議もなかったという。 特攻隊だから地上戦のために壕を掘る道具もないので当然だね。 しかも、知念氏は、この件についてインタビューを受けたのは、この1970年曽野綾子氏のが初めてだという。 A氏:「沖縄戦記・鉄の暴風」に出てくる知念少尉の悲憤、慟哭、痛嘆はどこから出てきたのかね。 私:指示命令系統だが、村長の話では赤松隊長の指示は直接、村長に来なかったという。 隊長からの指示は、安里巡査を経由してきたという。 そこで著者は安里巡査に隊長から集団自決命令があったかをインタビューする。 驚いたことにこの安里巡査へのインタビューも著者が初めてで、20年前に「集団自決は赤松大尉の命令だ」と書いた「沖縄戦記・鉄の暴風」はその重要な命令伝達係の安里巡査へのインタビューをしていないことが分かる。 そして、安里巡査は曽根氏のインタビューで命令などなかったという。 A氏:でも、手榴弾という武器は命令無しで民間人には渡らないのではないの? 私:著者もその疑問を持って取材をするね。 当時、沖縄では現地で兵隊を徴兵した防衛招集兵というのがあった。 これらの島民は一応、正規の兵隊だから、手榴弾は当然、支給されていた。 渡嘉敷島では、艦砲でやられ、混乱に陥ったとき、これらの隊員が同じ島民が死にやすいように自分の手榴弾を配ったようだね。 しかし、不発が多かった。 これは品質の問題よりも、島民がよく使い方を知らなかったせいだという。 A氏:手榴弾は赤松隊長の命令で組織的に渡した訳ではないんだね。 私:仮に軍の命令があったとしても、手榴弾で死ねない親子兄弟を命令だけで徹底的に殺すだろうかね。 「魔法」の助けがなかったら、そんな殺し方はありえないだろうね。 それに自決後に生き残って怪我している島民を赤松隊の看護兵が手当てしている。 島民からの食料を強制徴収したという事実もなかったという。 むしろ、兵隊のほうに餓死者が出ていたようだね。 明日は、集団自決の引き金とその評価の問題にふれよう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.10.28 17:48:39
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