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日記はこれから書かれるところです。

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2007.11.30
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今回は本当に適当で長いだけのものになってしまいました。

良い作品というのは、常に賛否両論巻き起こすものだが、『グランド・フィナーレ』について、ネット世界で多くの言及がなされていることに気付いた。まあ、芥川賞受賞作なんだから当然のことなんだが、そういう流行ものに疎いため、全く気付いていなかった。

しかし、しっかりと論じ切っているものには出会えなかった。どこかお茶を濁している感が拭えないものばかり(いや、私のものも十分お茶を濁しておりますことは棚に上げないと、こういうことは語れないものでして)。

より驚いたのは、「わからない」という評価を「良くない作品」という評価にそのまま無反省につなげているものの多さだった。

大学の映画史だか何だかの講義で、まあまあ有名な映画評論家が言っていた言葉を思い出す。

「レポートを書かせると、たまに「自分には合わないと思った」なんてことを書くやつがいる。その時点で、本当はそのレポート用紙を破り捨てたくなるんです。自分がわからないなら、その要素は何であるのか、自分を超えたものであるなら、その要素は何であるのか、こうしたことを考えようとしない学生のレポートは全く価値が無い」

というわけで、本当は「所有権」について書こうと思っていたんだけど、グランド・フィナーレの世間的評価というものをちょっとまとめたい。

といっても、他者様のブログを探し出し、トラックバック張るのも面倒なので、結構言及されていた「芥川賞選考者の選評」に触れたいと思う。


■132回芥川賞選評(ここから引用)

◆選評(抜粋)

高樹のぶ子
「グランド・フィナーレ」は、少女偏愛性癖者の内面にこもる熱が、ひんやりと伝わってくる、明るくて無邪気で無気味な小説である。正常の中の異常、異常の中の妙に純な部分がきわどく描かれていて、今話題になっている奈良女児殺人事件を外側から事件として見たときの恐怖とは別の、人間の内側に寄り添って見る場合にしか経験できない、汗ばみ息苦しくなるような怖さがある。これは文学にしか果せないことだ。

池沢夏樹
 では、今から受賞作として広く読まれるべきは何か。阿部和重さんの「グランド・フィナーレ」以外にはないだろう。主人公の姿勢が神町に戻ってがらりと変わることの意味付けが難しいし、ペドフィリアの実態について不正確だという指摘もあったけれど、しかしこれは受賞に価する作品である(本当は前回の候補作の「ニッポニアニッポン」で受賞できればよかったのだが)。

石原慎太郎
 当選作となった阿部和重氏の「グランド・フィナーレ」を私は全く評価出来なかった。以前の、絶滅に瀕している鳥「トキ」について書いた作品にも一種のマーケッティングとしての作者にとって余り必然性のない題材の選択が感じられたが、今回の作品も世間を騒がした忌まわしい事件との時間的相関性を外しても、物書きとしての内面的なニーズが一向に感じられない。

古井由吉
「目をとじるまでの短かい間」は、老境小説と読める。それらしい香りさえする。ところが主人公の医師は、どう読んでも、男盛り働き盛りの年齢にある。(中略)手術の場は最前線である。そこはそのつど技術の先端の伸び切るところで、その先にはあらわな、運命がある。医療とは限らぬことだ。働き盛りの人間はつねに先端の場に、先端のつもりはなくても立たされ、そこに尚早の老いが迫る。さらに追うべきテーマだ。

黒井千次
 阿部和重氏の「グランド・フィナーレ」は、ロリータコンプレックスを持つ主人公の東京での家庭生活の破綻と、故郷山形へ引き上げてからの逼塞した暮しとを描いた作品である。(中略)自分の娘に対する心情と他の少女に向う欲求との違いなど必ずしも描き切れていない恨みはあるものの、生の捩れを追う筆に確かな手応えを覚えた。

宮本輝
「グランド・フィナーレ」では、これまでの氏の作品と比して、その素材も文章も構成も機微が増し、登場人物それぞれの存在感が肉厚化したと感じて、私は受賞作に推した。けれども、受賞に反対する委員の意見は辛辣で、一時は受賞作なしという流れにもなりかけた。そのそれぞれの厳しい意見を、私は全面的に否定できない。

河野多恵子
 白岩玄さんの『野ブタ。をプロデュース』では、高校二年生の主人公が鎧(よろ)おった自信家の野心から、いじめられっ子にされそうだった転校生を人気者に仕立ててゆく。男女の生徒たちの中でそれが成功してゆくのは、彼等の関心と無関心が混合しているからで、やがて主人公がふとしたことから窮地に立たされた時の周囲の様相、彼の身の処し方に至るまで、時には世の中というものの雛型をも見るように興味深く読んだ。

村上龍
肝心な部分が書かれていない中途半端な小説だと思ったが、(中略)それでもわたしは阿部氏の作品を推した。その理由はただ一つ、小説にしかできないことに作者が挑戦しているように感じたからだ。他の候補作は、たとえば作文でも漫画でもエッセイでも表現可能だと思えるものばかりだった。

山田詠美
「グランド・フィナーレ」。微妙な境界線がいくつも交緒し、大きな境界線を作り出した丹念な作品。乱暴で繊細。惨めで不遜。欠点はあるけれども筆力を感じて、祝、受賞。


■文学者による文学評

しかし、文学者の文学評というのは、なぜにこうわかりにくいのだろう。わかるやつにだけわかればいい、と言っているかのようだ。

そして、そうした考えの持ち主たちが、賞を選ぶという、この矛盾をいかに解消するのだろう、といつも不思議に思う。

まあ、とにかく、賞に選ばれないからこそ天才的という作家の可能性は否定できないことは述べておかねばなるまい。

さて、選評の抜粋ゆえ、よくわからないところもあるのだが、受賞作『グランド・フィナーレ』への賛否を分けてみたい(以上の引用だけを手がかりにしているので適当なんだが)。

賛成…高樹のぶ子、池澤夏樹、黒井千次、宮本輝、村上龍、山田詠美
反対…石原慎太郎
不明…古井由吉、河野多恵子

さて、宮本輝が述べるところの「受賞に反対する委員の意見は辛辣」というくだりは、こうしてみると、石原慎太郎だけの意見ということになろうか。これについては後で見よう。


■賛成評の抜粋の抜粋

賛成票が多く見えるが、しかし、その内部意見は必ずしも一致していない(といっても、選評の全文を読んでいないから適当なんですが)。

上にみた抜粋自体が、実際に「抜粋」たりえているか気になるのだが、そこからさらに抜粋しよう。

高樹のぶ子…「正常の中の異常、異常の中の妙に純な部分がきわどく描かれてい」る。

池澤夏樹…「今から受賞作として広く読まれるべきは」「阿部和重さんの「グランド・フィナーレ」以外にはない」

黒井千次…「生の捩れを追う筆に確かな手応えを覚えた」

宮本輝…「それまでの氏の作品と比して、その素材も文章も構成も機微が増し、登場人物それぞれの存在感が肉厚化した」

村上龍…「小説にしかできないことに作者が挑戦しているように感じたから」

山田詠美…「微妙な境界線がいくつも交緒し、大きな境界線を作り出した丹念な作品。乱暴で繊細。惨めで不遜。欠点はあるけれども筆力を感じて」


さて、やはり、よくわからない。

高樹や黒井の言うような「正常の中の異常」や「生の捩れ」というものが主題だと、どうして読めるのか、俺にはよくわからない。

また、池澤や宮本、そして山田の評は、(この部分だけでは)何が言いたいのかよくわからない。

村上の選評(の抜粋の抜粋)だけが、理由をある程度はっきり述べているように感じられる。部分として良いとか悪いとかではなく、村上だけが、小説を論じているように思える。

そして、俺も、阿部和重が「小説にしかできないことに」「挑戦している」ということに賛成する。ただし、村上が考えている以上の挑戦ではないかと疑っているが。


つづく





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Last updated  2007.12.01 02:01:10
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