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2009.06.12
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前回、『1Q84』について、いわば読後の覚書としていろいろと適当に書いたが、今回は敢えてこちらの関心に合わせた読解を記したい。


■物語からの自由

この作品は、現実と物語の関係を描いたものだと前回指摘した。そして、桎梏としての家族の物語や宗教の物語が、人々に救いや癒しだけでなく、抑圧をも与えることまで指摘した。

この作品は、こうした抑圧としての物語からわれわれは自由になれることを描いている。その意味で、ひとつの「現代における啓蒙書」となっている。

青豆や天吾は、ある種の物語(家族の物語)を拒否した存在なのである。


■物語の喪失、リトルピープル、「自由からの逃走」

さて、しかし、われわれは物語から自由になれるが、物語はそもそもわれわれに必要なものであった。

そうした物語から自由になった者たち、あるいは、物語を奪われた者たちはどうなるのだろうか。

エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で、教会の権威や身分制社会を奪われ自由を与えられた人々は、大きな権威を求めて一気にファシズムに走ったと指摘した。

ここに「リトル・ピープル的現象」を見ることができるかもしれない。


■物語への自由

しかし、この作品は、私たちが物語を選べる存在だと主張しているようだ。現実をどのような物語で解釈するかを選べる存在だと主張しているようだ。

偶然があたえてくれる物語。他者との出会い。それが生きる力となることを伝えてくれる。

このリアルな現実に物語を見出すことこそ人間の条件なのかもしれない。積極的な意味においても、消極的な意味においても。


■ふかえりと天吾がセックスした意味は

以上のように考えれば、ふかえりが「お祓い」として天吾とセックスをした意味が理解される。

天吾が父親に会いに行ったとき、その寓話として「猫の国」の話が出てきた。猫は村上にとって自由の象徴なのだろう。その寓話のなかで主人公が見えなくなるというところが大変に示唆的だ。

すなわち、それは天吾が家族の物語から自由になったことを意味する(猫の国に行くことと、自分の出自の秘密を知ることはパラレルだ)。そして同時に、天吾が見えない存在になったことも象徴されている。

すなわち、自分を自分として支えるだけの物語(家族の物語)がなくなったのである。

そうしたとき、ファシズムに走った大衆のように、この小さき人間は、大きな物語に回収されやすくなってしまう。

「お祓い」が必要な理由はそこにある。

そして、その「お祓い」は、自分の原風景を見せるものだった。天吾は、ふかえりとの「結合」のなかにあって、自分の本当に求めているものがわかった。

人間は、他者とのつながりによって、自分が見えるとでも言っているかのように。

ふかえりは、その意味において「パシヴァ」なのである。


■自分の物語を探し育む

天吾は、自分の個の物語に気づく。個の物語は多くの者にとって自分では気づきにくいものなのかもしれない。

大切なのは、その弱き萌芽を自分の中で大切に育てることだろう。天吾はそれを選んだ。

ところで、それが二人の関係(天吾とふかえりの)から生じたというのは興味深い。個の物語は弱いが故に、親密な場所で育てなければいけないと言っているようだ。


■物語の複数性

ただし、そうした個の物語もまた他者を傷つける可能性があることを知らなければなるまい。私たちは、自分の物語が絶対だと主張してはならないのだろう。

そこに物語が並立し、さまざまな救いが存在する可能性が生じる。

また、他者の物語が、自分の物語を作り育てる手助けをしてくれる。自分の物語は、他者なしには発見できないものだと教えてくれる。

私たちの現実は、複数の物語が共存し、そうした物語の重なりのうちに見出せるものなのかもしれない。われわれの現実に対する物語の可能性とは、われわれの存在の根源に関係したものなのだと思う。

そこに絶対の救いがあるかはわからないが、たまに癒しはあるのだろうと思う。あるいは、そう信じたい。


■■■参考■■■

まったく異なった角度からの『1Q84』評。「ひとつの読み方」の方が読みやすいか。
こぶた新聞「村上春樹『1Q84』(新潮社、2009年)」「村上春樹『1Q84』(新潮社、2009年)――ひとつの読み方





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Last updated  2009.06.16 00:42:28
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