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テーマ:今日行ったコンサート(1138)
カテゴリ:オペラ
新国立劇場 14:00~
3階正面 ワーグナー:トリスタンとイゾルデ トリスタン:ステファン・グールド イゾルデ:イレーネ・テオリン マルケ王:ギド・イェンティンス クルヴェナール:ユッカ・ラジライネン ブランゲーネ:エレナ・ツィトコーワ メロート:星野淳 牧童:望月哲也 舵取り:成田博之 船乗り:吉田浩之 新国立劇場合唱団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:大野和士 演出:デイヴィッド・マクヴィカー 新国のトリスタン、3日目は年明け早々の公演であります。既に昨年中の公演で色々言われているようですが、まぁこっちは初日なので(笑) 最終日は行けるかどうか微妙になって来たので、唯一確実に行ける(=予定が他に入りようが無い)のが一番高い席で、ある意味良かった良かった(謎) それはともかく公演はどうだったのか? まぁ、正直言って、相応にいい出来だったと思います。ただ、新国立劇場で、という条件付きですが。ま、こっちも、生で観るのは十数年ぶりくらいじゃないかと思うけど。 歌唱陣は、それなりのレベルであったと思います。声量的にはトリスタン役のステファン・グールドがいい出来だったと思います。単に声量があるだけでなく、歌としても今回はなかなかのもの。ただ、上手いんだけど、と留保条件をどうしても付けたくなってしまう。公平に言って、今このくらいの声でトリスタンが聞けるというのは幸せ、と言っていいとは思います。ただ、深みというか、声自体は立派だけれど、もう一枚腰が欲しいな、という気はします。歌としては平版とは言わないけれど、この役どころでの歌唱としては、という感じかなと。ただまぁ、これはこれで贅沢というものなのでしょう。 一方、イゾルデ役のイレーネ・テオリンは、これに比べるとやはり声量というか歌に不足があるかなと。歌えてはいるんですが、グールドと並べると、どうしても差が見えてしまう。ただ、このレベルであれば、文句は言えないでしょう。クルヴェナール、ブランゲーネ、この辺は役なりに出来ていたと思います。マルケ王がちょっと物足りないかなと。声がどうとかいうより、表現力というか、表現の方向性がちょっと爺さん過ぎやしないかい?というような。 まぁ、大体そんな所です。 問題はオーケストラ。一言で言って力不足。 正直、元旦までさんざんあれこれ聞いて来た後遺症はあるとは思うけれど、やっぱりそもそも音があっさり。これは毎度のことではあるけれど、出て来る音がもう一つ深み、厚みが足りない。低弦が 10-8 だったので、恐らく16-14-12-10-8といったところだったのでしょう。だから、新国立劇場でもあるし、人数的に不足は無い。そういう意味ではなくて、弦なら弦の一つ一つの音がもっと響きを持って欲しいのだけれど。これは最初からそうだったし、いつもの問題だとは思うんですが、こういう、響きに耳を傾けるような曲では、どうしても目に付いてしまう。嫌みな言い方かも知れないですが、結局「日本の規格」でやってる内は、この辺の力不足が何処迄行っても解消されない。で。観る方もそういうもんだと思ってしまうから、結局何時迄経っても誰も文句言わない。もうどうしようもないんでしょうか、この変なダブルスタンダード..... それと、それにしても、やっぱりパワー不足。年内の公演の話に比べると全体に頑張ってはいたのだろうけれど、やはりスタミナ不足だと思います。「トリスタンとイゾルデ」は、そういえば最後の最後に「愛の死」があるので、そこでオーケストラはクライマックスを造る事を要求されるのだけれど、正直、オケが反応し切れていなかった感じかなと。実は第3幕、ヴィオラの女性が一人途中で気分が悪くなったようで、他の団員に抱えられて出て行ったのだけれど、やはり「トリスタン」は過酷なのかも。 ただ、それを承知で言えば、そこはプロなんだからスタミナ付けてやって貰うしかないのだと思います。一人二人倒れるのは個人差もあるし仕方ないと思うけど(いや決して倒れるまでやれっていう意味ではないけどね)オーケストラとしては「だから充実度は下がるんです」というのは不味いんでないかと。厳しいようだけれど、演奏内容としては、これはこれで決して悪くは無いだけに、オーケストラとしての能力の限界を感じさせてしまうのは不味かろうと。結局これも同じ事で、日本人だからとか言ってちゃいけないと思うんですよね。 大野和史は確かにいい指揮ではあったと思います。細かい所に配慮が行き届いて、ピアニッシモで聞かせるべき所をちゃんと聞こえるようにピアニッシモで手を抜かずやらせているし、音楽の運びもかなり良かった。 いや、普通に聞けば、いい出来だったと思います。ただ、予想される不足点が見事に的中してるだけに、ちょっとなんというか...... 演出。 率直に言えばいい意味で凡庸。 まずもって、読み替えというものが全くない演出。強いて言えば、さくっと「ああこいつら元々好き合ってるんじゃん」というのが分かる第1幕、というくらいがやや特徴的かなと。 どちらかと言えば象徴主義的な演出で、7割方簡素だけれど、大体何がどうなってるというのはわかるくらいの具体性のある、という感じ。セット上にかなり大きな月が出るのですが、あれ、その存在自体や動きに、格別な意味はあったのかしら。色でもって意味付けしていたとか、最後に沈んで終わりとかいうのは分かったけど。 全体的には悪くないと思うのは、その舞台自体が相応に「美しい」ものだったかな、という点。これは、いわゆる「きれい」という意味ではなくて、美術的な意味。シンプルな装置を大胆にドンと置く、といった感じ。装置自体には勿論細部があって、がさがさした質感だったりするのだけれど、その大きさや見え方が新国立劇場の舞台によく合っていて、存在感があって、でも煩く自己主張しないという感じ。一番色々置いているのは第2幕なのだけど、ここにしても、上から見る限りでは、決してごたごたした感じではない。これに対し、色々に使い回される「月」を掲げるくらいで、暗くて見通せない舞台奥も含めて、空間を上手く使っていると思います。多分この路線自体は使い古されたものではあるのだろうけれど、それにしてもパッと見据わりのいい舞台だったと思います。衣装についても、イゾルデやブランゲーネのシンプルな衣装、マルケ王のうっかりすると司祭かと思うような質素な感じの衣装も、このさっぱりとした舞台に合っていたと思います。 ただ、どうにも違和感があったのが、各幕で出て来る上半身半裸の若衆集団。こいつらの振る舞いの乱雑さがこの舞台にとても合っていなかった。10人ばかりがガサガサ出て来るのだけれど、ブランゲーネに品の無いちょっかいを出したり、というのは分かるとして、まずこいつらの動きが悪い。動きに統一感が無いのだ。連動して動いてはいるのだけれど、動きがバラバラ。そして、動き自体がある意味生々しい。正直、素人臭い動き。これが、今回の象徴主義的な、もっと言えば様式美の方へ傾く方向性の舞台に合っていない。正直言えば、こいつらを出す意味が殆ど感じられない。もしこの演出の中で出す意味があるとすれば、様式美の方へ押しやられてしまうのをぶち壊す目的くらいしか想像が付かない。それほどまでに違和感のある動きだった。せめても、ぞろぞろと10人も出さずに、2,3人くらいでもっと統一感のある動かし方をすれば、とも思うが。もしこれが舞台と調和させるつもりで出したのだとすれば大失敗。正直、丸々省いても誰も困りません。 まぁ、それさえなければ、収まりのいい演出だったと言っていいのかも知れません。 ただ、この演出、間違いではないんだけど、ある意味ここまで「何も無い」というのも、どうなんでしょうね。別に奇を衒うべきとは言わないし、某か読み替えがあるべき、とも言わないけれど、ちょっと捻りが無さ過ぎると言うか...... 元々、こういう象徴主義的演出というのは、観る側の想像力に任せておく部分が多いものだと思うのですが、この演出、微妙に具体的な所と抽象的な所とが混淆していて、それがこの演出を受け入れやすくしている部分ではあると思うんだけれど、同時にこの演出の限界でもあると思うのですね。一歩間違うと、この話をよく知らない人にとっては中途半端でなんだか分からない内容、よく知っている人にとっては何の新味も無い内容とも取れてしまう気がします。変に捻った結果おかしなものになってしまう(新国の指環とかね)よりはよほどいいのですが、この演出、ここから何処へも行きようがない感じもあって、微妙な気はするのです。例えば、この公演、お前どうしてももう一回観たいか、と言われると、次の休日公演は一応仕事になりそうだし、とか天秤に掛けて、まぁ行かなくてもそん時は仕方ないかな、くらいの感じではあるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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