カテゴリ:日本史
クロニクル 四国連合艦隊下関砲撃
1864(元治元)年8月5日 152年前のことです。この日、英・仏・米・蘭、四国の連合艦隊が、長州藩の下関砲台を砲撃、僅か1時間の戦いで砲台を占領、圧倒的な戦力差を見せつけました。 この砲撃は、前年の5,6月に、長州藩内の尊皇攘夷派の久坂玄瑞らが、幕府が朝廷に約した期限が来たことを理由に、下関海峡を封鎖し、米・仏・蘭の艦船を予告なしに砲撃し、さらに海峡封鎖を続行したことに対する報復でした。 長州藩の理不尽を怒った英国を加えた4国は、イギリス公使オールコックを中心に計画を練り、準備をすすめたのですが、藩命で密かに英国留学の旅に出ていた、伊藤俊介(博文)と井上聞太(馨)の2名が、この情報を得て、ロンドンから大急ぎで帰国し、オールコックに、藩説得のための、しばしの猶予を願い出たのです。オールコックは申し出を喜びましたが、二人の説得も藩内の保守強硬派には、届きかなかったのです。 こうして、四国連合艦隊は、17艘の艦船に5000名の兵士を積んで下関を攻撃したのです。長州藩の久坂ら尊皇攘夷派は、ほとんど何も出来ずに終りました。武士の軍隊が全く役に立たない事がここに明らかになったのです。 この戦い以後、長州藩も、欧米列強と戦う無謀を認識し、開国へ向けて、大きな路線転換に踏み込んで行く事になったのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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