カテゴリ:日本史
ロニクル 日大全共闘の徹夜団交
1968(昭和43)年9月30日 49年前のことです。来年はあれから50年ですか。この日、両国の日大講堂で、日大全共闘系の学生ら約1万人を集めての全学集会が開かれました。周辺には支援の学生2万5千人、これを妨害しようとする体育会系学生を中心とした800人が集合して異様な空気が漲っていました。 国税庁による使徒不明金20億円の摘発に端を発した日大闘争は、やがて広範な学内民主化闘争の様相を強め、5月23日には、同大学で始めてのデモが行なわれ、4日後の27日、各学部から7千人が参加して、全学共闘会議(委員長 秋田明大(あけひろ))が結成されました。 日大全共闘は、大学当局との大衆団交を要求して、次々にバリケードで教室等を占拠しながら無期限のストライキに(バリケードに篭ったストライキでしたから、学生用語で、バリストと呼ばれました)突入しました。 当局は体育会系学生を使って殴り込みをかけ、さらには再三にわたって機動隊の出動を要請し、学生には多くの怪我人が出る始末となりました。 さて、30日に戻ると、3時頃に古田会頭が姿を見せると、場内は騒然となり「集会の自由を認めよ」というシュプレヒコールが、沸き起こりました。 この集会は翌日午前3時まで、12時間に渡る徹夜団交となり、古田会頭はこれまでの当局の対応を全面的に謝罪し、学生の自治権の確立や体育会の解散などを約束しました。 しかし、当局は10月3日になると、学生との約束を一方的に破棄して、秋田議長ら学生幹部を当局に告発。秋田議長らには逮捕状が出されるに至ります。 こうした当局の態度が問題をこじらせ、長期間に渡って、全学ストライキが続けられる結果となりました。 成田空港の開設問題もそうでしたが、当局の初期の対応のまずさが、後々に大きな禍根を残すのですね。政治家や行政側には、このことをしっかり肝に銘じてほしいのですが、この点の学習能力は、他の点に比べても低すぎるようですね。なんとかならないのかな? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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