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リュウちゃんの懐メロ人生

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2020年10月19日
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カテゴリ:奈良散策
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​
白楽天の「長恨歌」を題材にした
上村松園の「楊貴妃」、
艶めかしいが気品溢れる名作だ!


(上村松園「楊貴妃」:大正11年)

10月14日、奈良市の郊外にある「松伯美術館」に行ってきました。
「松伯美術館」は、女性として初めて文化勲章を受賞した「美人画」の画家・上村松園と息子の上村松篁(しょうこう)、孫の上村淳之(あつし)の三代に渡る日本画作家の作品のコレクションを集めた私立の美術館です。​

「松伯美術館」は平成6年(1994年)、松園の息子の松篁、孫の淳之から寄贈された作品をコレクションの基礎として、近畿日本鉄道の名誉会長であった佐伯勇氏の広大な邸宅敷地に開設されました。

「松伯美術館」の館名の
「松」は上村松園の「松」、
「伯」は佐伯勇の「伯」のようだ。
<「松伯美術館」のHP>​→ここをクリック​
 
リュウちゃん、中学校3年生の美術の教科書に掲載されていた上村松園の絵を観て、いっぺんに魅かれてしまったのです。

何と瑞々しく
上品な美人画なのだろう!

以来、松園の実物の美人画をじっくり鑑賞したいと思っていたのですが、その機会は中々無く、奈良に住居を構えてから奈良市に「松伯美術館」が在ることを知り、やっと松園の実物の美人画に出逢うことが出来たのです。

ということで、女房殿の運転する車の助手席に乗って何度か「松伯美術館」に行ったことがありますが、今回は公共交通を使って、一人で出掛けたという次第です。

リュウちゃんの家から「松伯美術館」までの行程は以下です。

(JR法隆寺)~(JR王寺)-乗り換えー(近鉄王寺)~(近鉄生駒)~(近鉄学園前)-徒歩30分―「松伯美術館」。
​近鉄「学園前駅」から北に向かって20分程歩きますと、左手に大きな池(大渕池)が見えてます。池の畔にある白亜の建物が「松伯美術館」なのです。​





今回は「裏口」から「松伯美術館」に入りました。



​入場は正面入り口からです。今回は、
「上村松園・上村松篁・上村淳之展「魂の継承 ~受け継がれる心~」(10月3日~ 11月29日)という展覧会を開催していたのですが、正面入り口には展覧会のポスターは貼ってありませんでした。​
 


館内に入り、やっと展覧会のポスターに出逢いました。



​​​今回の展覧会では、松園の大作は冒頭に挙げた「楊貴妃」と、後述する「花がたみ」の2点だけだったのですが、リュウちゃん、この2点の前で「釘づけ」になってしまいました。​​​
 
それでは改めまして、「楊貴妃」と「花かがり」を紹介させて頂きます。尚、「松伯美術館」の館内は残念ながら撮影禁止でしたので、「図」は全てネットからお借りしました。

​<「楊貴妃」(再掲)>​​



「楊貴妃」は、大正11年、松園47歳の時の円熟した作品です。

​​題材となった「楊貴妃」(719年~756年)は、中国・「唐」の第9代皇帝・玄宗の寵愛を受けた皇妃で、玄宗皇帝が余りに深く楊貴妃を寵愛し過ぎ、ために国務を疎かにして「国を傾けた」ところから「傾国の美女」と呼ばれる女性です。​​
21歳の時に玄宗皇帝に見初められ、26歳の時に「貴妃」になりました。

​​松園の「楊貴妃」は、唐代の詩人・白居易(白楽天:772年~846年)が、楊貴妃の死後の50年後の806年に作られた全部で120句ある長編の漢詩「長恨歌(ちょうごんか)」の「第5句~第8句」に基いています。​​

​(長恨歌第5句~第8句)​​
(原文)
春寒賜浴華清池 温泉水滑洗凝脂 
侍児扶起嬌無力 始是新承恩沢時 
雲鬢花顔金歩揺 芙蓉帳暖度春宵

(現代語訳)
​楊貴妃は)春まだ寒い頃、華清池の温泉を賜った。温泉の水は滑らかで、きめ細かな白い肌を洗う。侍女が助け起こすと、なまめかしく力がない。こうして初めて皇帝の寵愛を受けたのである。雲のように柔らかな髪、花のような顔、歩くと揺れる黄金や珠玉で作られたかんざし、芙蓉の花を縫い込めた寝台の帳は暖かく、春の宵を過ごす。​

​以下に大正12年に「京都日出新聞」に掲載された松園の「芙蓉の花にも似た美しい楊貴妃を」という記事を貼り付けます。
<芙蓉の花にも似た美しい楊貴妃を(上村松園)>
帝展の方も大分出品しなかったので今年は思い立って……それも近頃取りかかったばかりで明日辺りから墨を当てようかというところなのです。画題は〈楊貴妃〉それもあの湯上りの美しい肌を柔らかな羅(うすもの)に包んで勾欄(てすり)に凭れながら夢殿の花園を望んで見ると言った構図で、尤も湯上りと言いますと何だか意気に、そうしてやや下品な様に聞こえますがそうではなく極気品の高いものにして全体羅の中に玉の様な肩先から白い胸の辺り少し湯上りのぽっと紅潮した皮膚が見えて居ると言った風で……傍には侍女が一人います。

 詩集はかなり繙(ひもと)きましたが白楽天のは殊に愛誦して居りましたし中でもこの長恨歌には深い懐かしみを持って居りました。何時か一度はそれを描いてみたいと思って居りましたが、この夏大阪で開かれた展覧会に楊貴妃の半身を描いたのが今度全身の絵として出品する事になったのです。大きさは二枚折の少し大きな位で絹地を用います。

 楊貴妃の服装についてはこの間中博物館へ通っていろいろ古い参考品を出して頂いて見て来ました。日本で申せば天平から奈良朝、あの時代の衣装や調度建築の様式で行く考えです。猶詩には春寒とありますがこれは夏の時候に改めるつもりです(大正12年)

​​<花かがり>​​



​​大正4年、松園40歳の時の作品です。題材は世阿弥の作と云われている謡曲「花筐(はながたみ)」に登場する狂女「照日の前」、​​
 
以下に謡曲「花筐」の内容を紹介します。

「春の越前国・味真野。皇位を継ぐため都へ向かった大迹皇子(をほどのおおきみ、後の第26代・継体天皇)は使者を最愛の女性・照日の前の元に遣わす。使者は照日の前に皇子からの絶縁の文と愛用の花筐(花籠)を届け、悲嘆にくれた照日の前はそれらを抱いて故郷へ帰っていく。
秋の大和国・玉穂(磐余玉穂宮:継体天皇が遷都した所で現在の奈良県桜井市池之内付近にあったとされる)。帝(継体天皇)は臣下とともに紅葉狩りに向かうが、そこへ皇子を慕うあまり都へとやってきた照日の前と遭遇する。帝の行列を汚す狂女として官人に花筐を打ち落とされた照日の前は花筐の由来を語り、漢の武帝の后・李夫人の曲舞を舞う。花筐を見た帝はそれがかつて自ら与えたもので狂女が照日の前であると気づき、再び照日の前を召し出して都へと帰っていく」

「松伯美術館」のHPには、この作品について以下のような解説文があしたので、下記に貼り付けます。

​◎松園が「乱心」に挑んだ名作​

芸術家たちが人間の個性や内面といったテーマを重視した大正時代、女性像を得意とした松園が、季節や日常の情緒といったものを超えて、女性の内面の深淵を表現しようと挑んだのが、この「花がたみ」です。松園40歳の時の作品で、第9回文部省美術展覧会(文展)で2等賞を受賞しました。世阿弥作とされる謡曲「花筐」に取材し、縦2メートルを超える絹本の大作に描かれているのは、ヒロインの「照日の前(てるひのまえ)」です。
音もなく散り行く紅葉のなか、花かごを手にたたずむ女性の表情や肢体には、どこか尋常ならざるものがあります。愛する人をひたすら追い求め、乱心を装う照日の前。その狂気を、雅(みやび)な風情で描き出そうとしたのです。
装いの乱れ、どこかうつろな眼差し、あてどのなし仕草など、繊細な筆致が照日の前の内面を見事にものがたり、美しい衣装や季節の彩りが、その深い悲哀をいっそう際立たせています。松園は華麗な衣装や凄味のある美しさをたたえた能面に取材しながら、この主題を絵画として結実させたのです。

<上村松園の年譜と主な作品>

上村松園って、
どんな画家だったのだろう?
どんな人だったのだろう?

中学3年生の美術の教科書に掲載された上村松園の美人画に感銘を受けたリュウちゃんですが、今回の「楊貴妃」、「花かがり」を観るまで、殆ど松園につきましては、「無知」だったと知りました。

ここでは、改めて上村松園の年譜を辿り、主要作品を観ることにより、リュウちゃんの感銘の軌跡を辿ってみたいと思います。


(創作する上村松園)

★1875年(明治8年) - 京都の下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる。
★1887年(明治20年、) - 京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に入学、四条派の鈴木松年に師事。
(※)この時、松園僅か12歳、よほど才能があり、早熟だったようです。

​★1890年(明治23年) - 第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒状受賞(この絵を、来日中のヴィクトリア女王の三男アーサー王子が購入し話題となった)。​
(※)この時、松園僅か14歳、やはり早熟の天才だったのですね。

​​<明治25年の「四季美人図」>​​



松園は少なくとも3作の「四季美人図」を残していますが、これは16歳の時に描いた2作目の四季美人図」です。まだ「美人画」という印象は薄いですね。
 
​​<「明治25年「清少納言」>​​



​​​「枕草子」第299段の<「清少納言よ、香炉峰の雪、いかならむ」と仰せらるれば、御格子あげさせて、御簾を高くあげたれば、わらわせ給う>を題材にしています。​​​
 
​★1895年(明治28年) - 竹内栖鳳(せいほう)に師事​
(※)この時、松園20歳、竹内栖鳳は近代日本画の先駆者の一人で、京都画壇を代表する画家です(第1回文化勲章受章者)、

​★1902年(明治35年) - 長男・信太郎(松篁)が誕生。父親は最初の師の松年だったとされるも、未婚の母となった松園は多くを語っていない。
​​​(※)上村松園は強い女性ですね!女性の社会進出を嫌った明治時代、「女のくせに」と男性画家から強い嫉妬と憎しみが渦巻く中で、第一線の画家としての生涯を貫き通した孤高の女流画家だったのです。彼女は晩年、自身の生涯を振り返り、自分の生涯は「戦場の軍人と同じ血みどろの戦いでした」と述懐したようですが、長男の上村松篁をシングルマザーとして出産した時も「世間との血みどろの戦い」だったのでしょうね。​​​

​<大正2年「蛍」>​​



この図は美人が蚊帳を吊りかけて居る処へ夕風に吹き込まれてフイと螢が飛び込んだのを、フト見つけた処です​(松園)​

​★1914年(大正3年) - 間之町竹屋町に画室竣工。初世金剛巌に謡曲を習い始める。
​<大正7年「焔」(ほのお)」>​​



​​​​「源氏物語」「葵の巻」に登場する、嫉妬の余り、生霊となって源氏の愛する女君たちに仇を成す女性・六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)を描いた作品です。松園言うところの「数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵」なのです。​​​​
 
​★1934年(昭和9年) - 母・仲子死去。
​松園は生まれる2ヶ月前に父を亡くしました。母の仲子は女手一つで松園姉妹を育てたのだそうです。明治時代、女性が画家になることは、世間では認められないことだったのですが,母の仲子は松園のよき理解者で、常に画業に勤しむ松園を励まし続けたのだそうです。​

​​松園はその著書『青眉抄』で母を追憶して「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と述べています。母・仲子の死後、松園は母を思慕する作品を何点か残しています。以下、それらの作品を何点か挙げて見ます。​​

​​<昭和9年「母子」>​​



​第十五回帝国美術院展覧会出品作品、この作品は、亡くなった母・仲子を追慕した最初の作品です。母の口元が黒いのは、「お歯黒」、眉を剃る習慣も明治初期まであったようです(重要文化財)​
 
​<昭和9年「青眉(せいび)」>​



「青眉」とは、眉毛を剃って、眉が青々とした様のことです。明治初期まで、女性は結婚すると眉を剃り、「青眉」になったのです。この作品も、母への思慕を投影しているようです。​
 
​​<昭和16年「夕暮」>​​



夕暮れ時、若い母が陽の光を頼りにして、障子を開けて針に糸を通す、昔には何処にでも見られたありふれた光景ですが、気品のある作品です。
松園が幼い頃に見た母・仲子の想い出に繋がる作品ですね。

​​<昭和18年「晩秋」>​​



母親が縁側で破れた障子の穴を直しているという、これも、昔はよく見られたありふれた光景ですね。母親の凛とした姿は見事ですね。きっと松園の母・仲子もこんなたたずまいの女性だったのではないでしょうか。
 
​​<昭和11年「序の舞」>​​



松園の代表作の一つです。若い女性の凛とした舞姿、この絵のモデルは松園の息子・松篁の妻なのだそうです​(重要文化財)​
 
尚、宮尾登美子の昭和57年の小説「序の舞」は上村松園をモデルにしたフィクションのようです(リュウちゃんは未読です)

​<昭和12年「雪月花」>



​​
貞明皇后(大正天皇の皇后)の御用命を受けて以降,完成まで実に20年以上を要した,女流画家・上村の畢生の力作である。画題は,雪,月,花にこと寄せた平安期の宮廷での雅やかな女性風俗であり,それぞれ『枕草子』,『源氏物語』,そしておそらくは『伊勢物語』等に想を得たと思われる優美な情景が,端正な画面構成と美しい色彩布置により表されている​(宮内庁の解説文)​​
 
​<昭和13年「砧(きぬた)」>​​



​​砧(きぬた)は、洗濯した布を生乾きの状態で台にのせ、棒や槌でたたいて柔らかくしたり、皺をのばすための道具。また、この道具を用いた布打ちの作業のことです。松園の作品は、世阿弥の作とされる謡曲「砧」に由来しています。
​​
​<昭和15年「春芳(しゅんぽう)」>​​



咲き始めた梅の花と若い女性、優雅で清潔な作品です。
 
★1941年(昭和16年) - 帝国芸術院会員。
★1944年(昭和19年)7月1日 - 帝室技芸員
★1945年(昭和20年) - 奈良平城の唳禽荘(れいきんそう)に疎開。

​​​​​​(※)「唳禽荘」、風変りな名前ですね。「唳」は訓読みで「なく」、意味は鶴や雁などが「鳴く」ことです。「禽」の意味は「鳥・鳥類」、なので「唳禽」の意味は「鳥が鳴く」ということになります。​​​​​​

「唳禽荘」は「松伯美術館」から直線距離で約2キロの奈良市山陵町にあり、1万坪の広大な敷地には、1600羽の野鳥が松園の孫の日本画家・上村淳之氏によって飼育されているそうです。


(「唳禽荘」:この写真は「なんば美術手帖」さんのブログからお借りしました)

京都生まれの松園の美術館が何故、奈良にあるのか?
という疑問はこれでほぼ解消、

松園~松篁~淳之の
「母・息子・孫」の三代の日本画家は、
昭和20年から奈良人だったのだ!

★1948年(昭和23年) - 文化勲章受章(女性として初)。
★1949年(昭和24年) - 死去。従四位に叙される。享年74。

​​<昭和16年「晴日」>​​



晴れた日。若い女性が布の洗い張りをしているという、これも昭和20年代までは日常的に見られた光景です。
 
この洗い張りをする女性の顔立ち、
柔らかな目線、

この作品こそ、
リュウちゃんが中学校の教科書で
惹きつけられた作品だったのだ!!

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最終更新日  2020年10月20日 04時09分55秒
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