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以下はワタクシのレポートであります。私以外は全員国文科。丁寧な読みに感服し、今日も「黒字決算」でした。
明治41(1908)年、朝日新聞に連載。9月1日より12月29日まで 翌09年刊。
<世代論>
①「小川君、君は明治何年生まれかな」と聞いた。三四郎は単簡に、 「僕は二十三だ」と答えた。 「そんなものだろう。 先生僕は、丸行燈だの、雁首だのって云うものが、どうも嫌いですがね。明治十五年以後に生まれた所為かもしれないが、何だか旧式で厭な心持がする。君はどうだ」と又三四郎の方を向く。三四郎は、 「僕は別段嫌いでもない」と云った。P72
(1)時代を明治41年とすれば、三四郎が生まれたのは明治18年。「明治15年以後」に生まれている。
(2)明治15年(1882)年とはどんな時代か? 「軍人勅諭」発布。立憲改進党(大隈重信)結成。壬午軍乱(親日派であった閔妃にたいして兵士が反乱清軍これを鎮圧。閔妃は親清派に転換) 日本銀行開業 中江兆民『民約訳解』(ルソー『社会契約論』の訳) 板垣退助刺される。福島事件。政治小説の隆盛。 東大の学生数 法48 理82 文41 医138 古典講習科36 全国人口 3670万118人。
東大の学生数でわかるように、自然科学の隆盛 自由民権運動の活発化 軍隊への波及を阻止するための「軍人勅諭」 日銀開業 産業の本格的発展のきざし
②政治の自由を説いたのは昔の事である。言論の自由を説いたのも過去の事である。自由とは単にこれらの表面にあらわれ易い事実の為に占有されべき言葉ではない。吾等新時代の青年は偉大なる心の自由を説かねばならぬ時運に際会したと信ずる。 吾々は旧き日本の圧迫に堪え得ぬ青年である。同時に新しき西洋の圧迫にも堪え得ぬ青年であるという事を、世間に発表せねばいられぬ状況の下に生きている。新しき西洋の圧迫は社会の上に於いても文芸の上に於いても、吾等新時代の青年に取っては旧き日本の圧迫と同じく苦痛である。 我々は西洋の文芸を研究する者である。・・・我々は西洋の文芸に囚われんがためにこれを研究するのではない。囚われたる心を解脱せしめんが為にこれを研究しているのである。 社会は烈しく揺きつつある。社会の産物たる文芸もまた動きつつある。揺く勢いに乗じて我々の理想通りに文芸を導くためには零砕なる個人を団結して、自己の運命を充実し、発展し、膨張しなくてはならぬ。P144~45
☆「政治的自由」「言論の自由」を求めるのは過去の事なのか?では、「心の自由」とは何なのか?現実の社会においての活動からの撤退か? この「演説」は、漱石にとって批判の対象として書いているのか、それとも多少は本心の発露なのか?
英文学について、これは、漱石の自論なのか?
時代
戊申詔書 戊申詔書(ぼしんしょうしょ)は、1908年10月14日に官報により発布された明治天皇の詔書の通称。日露戦争後の社会的混乱などを是正し、また今後の国家発展に際して必要な道徳の標準を国民に示そうとしたものである。この詔書をきっかけに地方改良運動が本格的に進められた。ウィキ
<「滅びるね」という言葉について>
日露戦争の経過について、英米の新聞を読むことができた漱石は、戦争の真の姿を知っていたと思われる。奉天会戦 日本海海戦のような派手な勝利だけではなく、予算は底をつき、「辛勝」の状態であり、けっして賠償金を大きな声で請求できるような実態ではなかったことを漱石は知っていただろう。しかし、新聞は日本軍の勝利を報じて部数を伸ばしただけあって不利なことは書かないし、政府や軍が事実を公表するわけもない。 日露戦後に陸軍がまとめた資料では、何月何日にどこどこの部隊が、どの地点からどの地点へ移動したかは記してあるが、肝腎の「評価」が全く書いてないという(司馬遼太郎)。作戦について記す時に最も必要なのは「評価」であるはずだが、存命のお歴々への配慮からか、記してない。戦争を改めて冷静に分析することが失われた時に、精神論が台頭するのは理の当然であり、その傾向は日中戦争から太平洋戦争に至るまで同じである。
国民は熱に浮かされたような状態で「講和反対」を叫び、日比谷暴動を起こしている。「日本は一等国である」という意識は「日英同盟」締結(1902)より日本人の心に刻み込まれている。※運動会にまで旗が掲げられている。 真の国力を知らぬ国民、知らそうとしない新聞。根拠のない自信と思い上がりは遠からず日本を滅ぼすだろうという漱石の見通し。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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