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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2016年08月03日
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カテゴリ:神秘体験空間

もうりさんのコメントに感化されて、久しぶりに、書き込みしたい。

 約2千年前に仏陀は「この世は霊魂の修行の場である」と言った。この世を泥沼の池に譬え、その池のなかで、泥の養分を吸い上げて、浄化し、見事な蓮の花を咲かせなさい、と教え、その意味は、霊魂の能力、心眼を開発しなさい、と教えた。

 人間の本質は、心=霊魂にある。霊魂は自ら進化するために、人生をつくる。

 心眼とは、肉体ではなく、肉体をつくる霊魂を見通す眼のことである。唯物論とともに、人類は霊能力を失い、もはや霊魂を感じ取れないばかりか、人の心もみれなくなっている。

 人の心を感じ取れず、読めないのが馬鹿である。

 この世しかないとする、いわば泥沼論である唯物論に染まった馬鹿が、先日、巷を賑わせた。

 この国が唯物論に染まっている証拠である。

 唯物論に染まった現代人の多くは、人は1人では生きられない、という原則を忘れている。多様性の原則を忘れた馬鹿は、地球は環境汚染が酷いので、火星に移住する、という馬鹿を生んでいる。

 地球以上に人間に適した環境はない、というのも原則である。というのは先人が苦労して今のような多様な環境にしてきたからである。火星に移住するという馬鹿は、まず、火星の環境に近い無人島にでも行って数十年でも暮らしてみればよい。

 シュタイナーは、地球から出たがり、宇宙に行きたがる馬鹿は、ルシファーの影響下にある、といっている。要するに妄想癖である。また逆に、地中に籠もり、地下に興味をもち、なんでも数値化しようとする学者癖をもつのは、アーリマンの影響下にあるという。

 霊魂の進化度は、各人で全く異なる。子どもの外見でも、大人よりも霊魂が進化している場合もある。肉体の外見と霊魂は異なる。肉体は、両親の遺伝を受け継ぐが、それを見本にして肉体を彫刻のようにつくるという。

 だから、霊魂が独創的に肉体をつくるほど、外見が両親に似なくなるという。

 霊魂は、自分の人生を予めみているので、肉体のハンデを背負うことは、ハンデから生じる障害を克服するために生まれてくるので、霊魂の進化度が高い。

 唯物論は、せいぜい19世紀以降の数百年しかたっていないまだまだ幼稚園児のものでしかないが、仏陀やキリストなどの教えは少なくとも2千年以上たっても残っているという年月の上でも、遥かに確かな教えである。

 仏陀やキリストの教えによれば、霊魂はあるし、天国や地獄もある。 例えば、この世を地獄化すれば地獄に行くし、この世を天国に近づければ、天国に行く。各自の霊魂が決める。

 さて、シュタイナーは、社会を1つの生命体として捉え、人体の三分節の、頭部、胸部、腹部と四肢に準えて、社会理想論を展開している。

 かつて数十億年前の、遥か昔の土星紀に、人類は1つの生命体だったという。土のアダムと呼ばれる存在である。そのとき人類は1人の人間で、人間というより火の生命体で、イメージとしてはいわば火の鳥(龍)だったそうである。

 シュタイナーによると、桑の実のような形だったそうである。
  
 いまでもそのときの原型をとどめていて、それは体温に名残りをもっているという。人間の体温は、自然界では蜜蜂の巣の温度33~36℃に等しいという。

 それは人類は将来また1つの生命体、火の鳥になるからだという。

 そのようなオカルト人類史から解き明かすと、シュタイナーの社会有機体三分節論は理解できる。

 というわけで、社会有機体三分節論についてよくまとめてあるホームページを紹介する。

 ★         ★         ★ 

 シュタイナーの「社会三層化」と市民運動(1)
 http://blog.goo.ne.jp/iruma-kai/e/63693d02e86fa964d1ddd63e6294ee7a

 僕は今も、自分のあのときの感覚が十分に理解できないでいる。その感覚を理解しようとして、また、自分自身はどのように日本の現実の社会に関わっていくのかを問い直そうとして、ふと、シュタイナーが社会運動を始めたときの著作『社会問題の核心』をもう一度読み直してみようかと思ったのである。以下につづるのは、その際に僕が改めて読み取ったこと、そして僕の心に去来したことのノートのようなものである。

『社会問題の核心』は、社会運動の本である。今でいえば「市民運動」の本とも言えるかもしれない。なぜなら、この本では「社会に変化を起こすのは、一人ひとりの個人であり、各人が自分のいる場所で自分にできることを始める」ことが強調されているからだ。

 この本が出版されたのは、第一世界大戦後の1919年、日本でいえば大正8年のことである。もちろん、その頃からさまざまな「民主化」の運動はあったけれども、シュタイナーほど一貫して「個」を基盤にしていた人は珍しかったのではないかと思う。「個人主義的アナキスト」を自称していた若い頃の姿勢は、神秘学者・オカルティストになってからも決して変わらなかった。むしろ、徹底した個人主義、アナキズムの基盤のうえに、シュタイナーの人智学(アントロポゾフィー)は展開されていったのである。

 今、シュタイナーが大切にしていた「個」の感覚がもっとも生きているのが、さまざまな市民運動なのではないかと僕は思っている。実際、ヨーロッパでは、学校、医療、農業、銀行といった領域でのシュタイナー派の人々の活動は、市民運動として展開されている。そこでは自分たちの活動内容の告知の仕方から、説明会や資金集め、行政とのやり取りに到るまで、一人ひとりの参加者の自発的な参加、対等な話し合いを基盤にして行われている。

 これは市民運動としては当たり前のことだ。僕がいま考えたいのは、アントロポゾフィー霊学は、実際に社会を変革する「知恵」となりうるのかということである。そこに、シュタイナーがリベラルな評論家という堅実な立場を捨てて、オカルティズムに到った理由もあるはずである。実際、現在、僕たちが眼にすることのできるアントロポゾフィーの成果は、学校も病院も、治療教育施設も、農場も、銀行も、すべて40歳を過ぎてからのシュタイナーの示唆から発展してきたものだ。

 コリン・ウィルソンはシュタイナーについての評伝のなかで、「もしシュタイナーが自由の哲学などの初期の著作だけを遺して死んでいたなら、リベラルな思想家としてベルグソンなどと並んで記憶されていたことだろう」というようなことを書いている。確かにそうかもしれないが、その代わり、その思想は実際の社会のなかに実を結ぶこともなかっただろうと思うのだ。

 日本でも、シュタイナーに共感する人々は大きく二つのグループに分かれている。シュタイナー教育などの実践面に重点をおき、その背後の世界観、ましてや霊界云々にはあえて触れようとしない人々。そして、逆に霊的側面や世界観・宇宙論に重点をおき、教育や社会実践にはそれほど関心のない人々である。もちろん、自分はどちらにも関心があるとか、全体としてのアントロポゾフィー(人智学)を学んでいるという人もあるだろうけれど、傾向としては、この二つの極のどちらかに傾いているのではないだろうか。

  『社会問題の核心』では、霊的世界観や宗教性といったものを現実社会と結びつける試みがなされている。シュタイナーは、「荒廃した社会にあって、今こそ《霊性》が必要だと説く人々と、ひたすら《現実》だけに関わろうとする人々がいるが、その二つが結びつかなければならない」と述べている。

 なぜなら、シュタイナーにとって、すべての社会現実は霊性の現れに他ならないからである。この本は、眼にみえる実際の社会現象を見据えつつ、そのなかに隠されている《根源的な思想》(霊性)を捉えようとする。すべての現実は、《根源的な思想》が不完全な、もしくは歪められた形で表出したものなのである。

 この本は、若い頃のリベラルな評論家シュタイナーではなく、50代のオカルティスト・シュタイナーが、戦後の混乱のなかでやむにやまれぬ思いから書き表したものである。その文体は、オカルティズムの用語などは一切用いず、ひたすら一般の人々に理解されることを目指している。しかし、その内容は、オカルティズムの研究を進めてきたシュタイナーが、社会の現実のなかから読み取った《根源的な思想》を踏まえている。それが「社会有機体の三層化」(三分節)というものである。

 シュタイナーの社会論は、当時のプロレタリアの人々と向き合うところから始まる。つまり、資本主義社会のなかで生産力を持たず、自分たちの労働力を資本家に売って生活している賃金労働者たちである。ちょうどロシアでは1917年の10月革命が起こり、ドイツでも社会主義的な政府の樹立を目指してさまざまな運動が起きていた。

 今改めて『社会問題の核心』を読み返してみて、シュタイナーが最初の1章をまるごと、このプロレタリアの人々が何を求めているのかという考察に当てていることに気づいた。

 シュタイナーにとって、「社会問題」の核心とは、そのままプロレタリア運動の本質とは何かということにつながっていたのだ。なぜなら、プロレタリアの人々こそ、人間にふさわしい社会のあり方を問い、時代に対して魂の叫びを発していたからである。

 たとえば、今の日本で、そのような魂の叫びを挙げているのは、どういう人々だろうか。格差社会といわれ、いくら働いても貧困から抜け出せないワーキング・プアと呼ばれる人々の存在も指摘されるようになった。年間の自殺者は毎年、3万人を超えている。あまりにも多くの人々が苦しんでいる。でも、そのなかで、「魂の叫び」といえるような意思表示を行っているのは、子どもたちなのではないだろうか。

 特に、不登校の子どもたち、そして「ひきこもり」や「ニート」と呼ばれる人々の存在は、現在の日本の社会の現実を考えるうえで非常に重要だと思う。彼らはしばしば「経済問題」と結びつけて論じられることがあるが、実際、彼らは日本の社会に参加することを意識的・無意識的に拒んでいるともいえると思う。

 もちろん、僕自身も不登校の経験があるので、学校に行きたくても行けない、社会参加をしたくてもできないという葛藤は身をもって知っている。積極的に登校「拒否」や社会参加の「拒否」をしているという実感はないだろう。

 しかし、いくら自分では学校に行こうと思っても、頭やおなかが痛くなったり、どうしてもだるかったりして、「身体がいうことをきかない」という状態があるのではないか。だとすれば、少なくとも彼らの身体は、現在の日本社会への参加を「拒否」しているといえるのではないだろうか。

 そして、この「身体感覚」が重要なのである。なぜシュタイナーが人間の「身体の三層構造」に即して「社会の三層構造」を解き明かしていったかといえば、すべての社会的現実は、人間自身の表出にほかならないからだ。そして、シュタイナーが社会の現実のなかに読み取ろうとした《根源的思想》とは、人間自身の本質なのである。

 今、日本の子どもたちの身体が「社会参加」を拒むとすれば、それは社会という身体(有機体)のありようが、人間の身体にふさわしいあり方をしていないからである。

 シュタイナーは自分の立場は決して、単に「社会」を「身体」になぞらえるアナロジーではないと強調している。シュタイナーにとって重要なのは、人間の身体を考察することで、「人間の生命が成立するために必要な条件」(das Lebensmögliche)を読み取り、それを参考にして「人間が生きられる社会」、つまり「生きた社会」のありようを考えることだった。そして、シュタイナーが辿りついた「生きた社会の必要条件」が、「社会が三分節されていること」であった。

 僕たちが、現在の日本社会に対して、アントロポゾフィーの立場から働きかけていくときは、この「三分節」が基本になるだろう。現在の子どもたちのいじめ、自殺、不登校といった問題に対しては、社会という身体を適切に「分節化」していく努力が必要になるだろう。

 社会そのものへの働きかけがなければ、いかに「理想的な学校」をつくったとしても、それだけでは解決にならない。なぜなら、子どもたちの身体が拒絶しているのは、学校の先に待ち構えている「社会」なのだから。大人のなかにその社会へのまなざしがなければ、子どもたちの不安は拭い去られることはないだろう。


 シュタイナーの「社会三層化」と市民運動(2)

 シュタイナーが『社会問題の核心』を書いたのは、ドイツが戦争に敗れた直後である。

 新しい国家の枠組みが模索される状況だったからこそ、たとえば私有財産に関しても、著作権と同様に、所有者の死後一定期間が過ぎた後は適切な後継者、もしくは公共の「精神生活」領域の機関の所有とすべきだといったラディカルな提案をもりこむことができた。

 この本は、あくまでも当時の敗戦国ドイツの混沌とした社会状況に向けて書かれたのである。その内容をそのまま現代に応用することはできないし、そうする意味もないだろう。

 しかし、シュタイナーの当時から状況は大きく変わったとしても、問題の本質は依然として変わっていないのではないかと思う。

 シュタイナーは、プロレタリア運動の問題の本質は、「精神生活」(Geistesleben)の問題だと述べている。精神生活というと分かりにくいが、要するに一人ひとりの個人がもつ才能や能力、個性などの「人的資源」のことである。

 シュタイナーにとって、「精神・霊」(Geist)という言葉は、いわば現実を生み出す「可能態」を意味するので、精神生活という語は、単に教育や研究といった精神活動を意味するだけではなく、すべての人間が潜在的にもっている可能性を指している。

 だから、もしかすると現代では、「精神生活」というよりも、「人的資源」(human resources)という言葉を使ったほうが通じやすいかもしれない。ただ、シュタイナーにおいては、人的資源とは「精神・霊の働き」(Geistesleben)のことだという意味も含意されているのである。

 これは、シュタイナーの社会論において、人間の「精神生活」が「天然資源」(Naturgrundlage)に対応していることからも理解できる。

 そのような意味での「精神生活」についてシュタイナーが指摘していることのなかで、僕自身が特に重要だと思うのは次の2点である。

 一つは、「労働力」は「商品」ではない、ということである。なぜなら労働力とは、人的資源、すなわち「精神生活」だからである。賃金労働者がもっとも痛みを感じているのは、実は自分の「精神生活」が切り売りされていることだというのである。

 すべての人間は、自分自身を実現するためにこの世に生まれてくる。そのために携えているのが人的資源なのである。この資源は本来、自分自身を表すために使われなければならない。それを他人に売り渡すということは、人間の尊厳を非常に傷つけることである。

 ここでシュタイナーは、社会の三領域を明確に分けること、つまり三分節化する必要を説く。

 ちょうど人間の身体が神経・感覚系(頭部領域)、呼吸・循環系(胸部領域)、代謝系(四肢・腹部領域)に分かれていて、それぞれが独立して働きつつ身体という全体をなしているように、社会においても「精神生活」、「経済生活」、「法・国家生活」は相互に介入することなく、自律的に働かなければならないという。

 今回、この本を再読していて、これらの言葉がやたらと「生活」という語が付いた複合語になっているのは、実際ドイツ語にそういう表現があるというだけではなく、シュタイナーにとって精神生活のみならず、経済や法律の働きもまた「社会の生命」に関わっているという含意があったのではないかという気がした。

 シュタイナーがこれらの三領域を区別する際に強調しているのは、それぞれの領域が独自の仕方で外界との関係をつくっているということである。

 たとえば、神経系は眼や耳や触覚などの感覚器官を通して外界と関わっている。呼吸・循環系は呼吸を通して、そして代謝系は栄養摂取や排泄を通して、外界と内界をつないでいる。同様に、精神生活、経済生活、法律生活とは、個人が他者に関わるときの三様の関わり方なのである。社会は、その三通りの関係性によってつくられていく。

 経済生活は、もっぱら「商品」の生産、流通、消費に関わる領域である。いわば自己表現として商品=作品を創造すること、それを人々の手に渡るようにして、それを気に入ったり、必要としたりする人が受け取るという関係性である。そこに働く原理は「連合」(association)である。生産者、商人、消費者が商品を介してつながっていく。その原理をシュタイナーは「友愛」という言葉でも表現している。

 ただし、商品を生産する力、つまり労働力や生産力は、一人ひとりの個人の資源、あるいは雇用者が所有している天然資源や財力などの生産手段から発生する。その二つが合わさって、商品が生み出される。シュタイナーは、そこでは雇う側と雇われる側が共同して一つの商品を生み出しているという理解が必要だといっている

 労働力は売り買いはできない。賃金労働者は、自分の人的資源(精神生活)を資本家に売り渡しているのではなく、資本家とともに、資本家ひとりでは生み出せない商品を共同でつくりだしているのだ。そして、雇う側と雇われる側との関係においては、その商品を生み出すためにどちらの力がどれだけの割合で関わっているかを明らかにすることが重要だという

 この精神生活の領域に働く原理は「自発性」(initiative)である。人間には自分の能力を生かして、何かを生み出したいという欲求が備わっている。そうした創造や自己表現への欲求に基づいて、自発的に生産活動に関われることが、人間の可能性を引き出していくうえでも重要である。そのためにも、労働力は売り買いできないこと、商品は雇用・被雇用者が共同でつくりだしているという共通理解が必要なのである

 また、シュタイナーは「生活するためには働かなくてはならない」という考え方ではなく、「働き手がいなければ経済活動は成り立たない」という認識が必要であるとも述べている。「経済生活」は「精神生活」に依存して成り立っているのだ。この原理をシュタイナーは「精神生活における自由」とも呼んでいる。

 シュタイナーは、当時盛んに叫ばれていたように、私有財産を廃し、すべての生産手段を社会化、もしくは国有とすることには反対だった。シュタイナーは、それがどのような経緯で所有されるに到ったにせよ、現在の所有物に対する権利を認めることから出発しようとする。人間には、自分の才能や能力といった人的資源に対する権利があるとともに、自分が獲得してきた土地や財産に対する権利もある。

 それらはともに「資源=精神生活」であり、それは社会活動へと生かされるべきものである。それをどのように活用するかは一人ひとりの自発性に任されている

 しかし、この権利関係においては、「法のもとの万人の平等」が前提となる。財力をもち、自分が作りたい商品をつくるために人を雇える資本家も、そこで雇われる労働者も、権利関係においては完全に平等である。この平等を保障するのが「国家」の役割であり、国家は人間対人間の関係、すなわち法律・権利関係だけを担当するのである。

 シュタイナーは、「社会的理解」ということを言う。ある商品に関して、その作り手(生産者)がそこにどれだけの力を注いだか、それにどれだけの価値があるのかを認めるのは、社会の側である。その社会の側の理解があって初めて、正当な賃金も、商品の価格も、雇用者と被雇用者の対等な関係も成り立つことになる。

 その「社会的理解」は、自由な「精神生活」から生じるその意味で、精神生活は、すべての社会生活の基盤なのである

 以上が、シュタイナーが「精神生活」に関して指摘していることで僕が重要だと思う2点の一つである。もう一つは、プロレタリアの人々が根拠とした「科学性」に関する指摘である。

 シュタイナーは、当時のプロレタリアの人々にとって、近代科学がほとんど宗教的な拠り所になっていると考えた。しかし、その近代科学は、プロレタリアの人たちが「ブルジョア」と呼んでいる階級の人たちが用意したものだった。近代科学を生み出した人々は、宗教性や精神というものを思想から排除し、唯物的な世界観をつくりあげたが、自分たち自身の生活のなかにはまだ旧来の宗教性が残っていた。

 ブルジョアの学者たちは、生活においては旧来の慣習や宗教性に支えられながらも、頭では精神性を取り去った思想をつくりあげた。ところが、プロレタリアの人々は、生活のなかからも、近代社会によって精神性や宗教性を奪われている。そして、彼らが拠り所にした科学的思想は精神的内容をもっていないために、魂を支えるものになっていないというのである。

 シュタイナーは、プロレタリアの人たちが真に求めているものは、世界理解であり、精神に満たされた思想であるという。同時に、もしそういうことを言えば、プロレタリアの人々は反撥して、自分たちにとって思想は経済的現実の反映にすぎず、自分たちは経済状況の改善や、生産手段の社会化を求めているということも十分に理解していた。ただ、プロレタリアのいう「階級闘争」は、社会において精神生活が真に自律し、人々の間に社会的理解というものが浸透することによって必要なくなるだろうと考えたのである。

 ここにシュタイナーが社会運動の一環として、最初に学校づくりに着手した理由も見えてくる。学校や教育の課題は、一人ひとりの個人の「人的資源」を引きだすことである。この人的資源は、子どものなかの生きる意欲として、自分自身を表そうとする欲求として備わっている。この意欲こそが、シュタイナーのいう精神・霊(Geist)なのである

 今の日本では、この「意欲」が完全に押さえ込まれているのではないだろうか。そして、今、僕は霊的、精神的なものの重要性を思うのである

 先に、シュタイナーに関心をもつ人々は、霊的な方向と実際的な方向の二つの極のどちらかに偏る傾向があると書いた。僕自身は、おそらく霊的な方向が身近であったために、それに反撥し、実際的(というか哲学的)な方向を目指していた。

 巷では「スピリチュアル・ブーム」とも言われるけれど、その「スピリチュアル」はえてして「前世」や「守護霊」のことであって、そこから実際の社会の現実への関わり方は見えてこない。

 また、社会の現実としては、「戦争ができる国」となり、ついに教育基本法に手をつけ、弱い立場の人々を追い詰め、憲法までも変えようとする政治の状況がある。そこに危機感を募らせ、さまざまな運動が展開されているけれども、そこに「霊的なもの」へのまなざしはあまり感じられない。

 かつてシュタイナーが社会三層化運動を展開したとき以上に、今の時代は、霊的なものが背後に押しやられているのではないか。

 ここで「霊的なもの」というとき、多くの人が「現実から遊離したもの」を思う。それは根拠のない自己満足の世界であって、現実の力にはなりえない、なりえたとしてもせいぜい宗教のような、特定政党の政治活動や票集めにつながる程度のことのように思えるのだろう。

 しかし、『社会問題の核心』のなかで、シュタイナーが一番言いたかったことは、社会の現実こそが霊的な現実の現われであり、抑圧された人々の訴えとは、つねに「霊的なものを求める魂の叫び」であるということではなかっただろうか。

 前回、僕が「アントロポゾフィーはフェミニズム」であると書いたのは、どちらも「背後に押しやられたもの」「目に見えないもの」の権利を取り戻そうとしているからである。

 たとえば元従軍慰安婦だった女性たちの証言に対して、「資料がない」という言い方で否定するのは物質主義である。それに対して、あくまでも物的証拠で戦うことは重要だけれども、その戦いへの意欲というものは、抑圧された側、虐げられた側がもつ目にみえない思いへの共感や想像力があるからではないのか。

 人間の尊厳も、平和も、幸福も、目にはみえない。子どもがどのような大人になるのか、この人生をどのように生きたいのか、そういった意欲も目にはみえない。

 自分がこの人生に期待していること、なぜ自分はこういう状況、こういう運命のもとに生まれたのか、そこで自分は何を表していきたいのか、そういった自分自身の意欲も目にはみえない。

 そのとき、前世に目を向けたり、占いをしたりするのもよいだろう。でも「生まれ変わり」があるとして、それを知りたいと思うのはなぜだろうか? 

 それは自分が何らかの意志をもってこの世に生まれてきたはずであり、おそらく何度生まれ変わりを繰り返しても、自分には生と死を超えて追い続けている目標があるという予感があるからではないだろうか。

 以前、『バシャール』という宇宙人の話をぱらぱらと読んでいたとき、唯一共感できたところがあった。それは、質問者が「前世について知りたい」と言ったときに、「あなたの前世についての情報はすべて今生にある」と答えたところである。

 自分のその時々の感じ方、どういったことに自分の意欲が向うのか、どういうことを達成したときに自分は幸せに感じるのか、そういったことを繊細に見ていけば、自分がどんなことをしたくてこの世に生まれてきたのかも見えてくるだろう。

 どんな霊能者に言われることよりも、自分自身で感じたことのほうが遙かに力強い。

 僕は、今、生き難さを抱えている人々は「霊的なもの」を求めていると思う。それは宗教に入信したり、自分以外の指導者にすがることではないだろう。生きる意味とか、納得とか、そういうものだ。それを「霊的」と呼ぶことに抵抗を示す人は大勢いるだろう。

 でも、本来、霊的なものとはそういうものなのだ。人間自身が「霊」なのだから。自分自身に到ろうとしている人は、霊的なものを求めていることになる。

 むしろ問題は、「霊的なもの」に目を向けることが、主体性や自律性の放棄であるかのように見られる今の状況である。

 このブログの最初に書いたけれども、シュタイナーの時代に、霊的なものについて語ることは、学者としての生命を葬り去ることを意味していた。今だって、その状況は基本的に変わらないだろう。霊的なものはキワモノであり、たとえいくら持ち上げられ、騒がれることがあったとしても、やはり少数者の領域である。

 今回、久しぶりに『社会問題の核心』を読み返して思ったことは、そのような霊的な視点をもって、市民運動を展開できないだろうか、ということである。これまで僕は、市民運動に関しては、そうした霊的な視点のようなものはできるだけ出さないようにしていた。

 しかし、アントロポゾフィーの現代性とは、霊的なことがらを普通の理解力で理解できるかたちで扱うことにあるはずだ。だったら、僕も自分にとって身近なことをストレートに表現していくべきではないのか。

 要するに、僕なりのカミングアウトが必要なのではないかと。

 なぜなら、人間の尊厳を、あるいは生命の尊厳を本当に復権することは、霊的なものへのまなざしなくしては可能ではないと思うからである。

 ★         ★         ★

 心眼を取り戻せ。この国の抑圧された個人主義を目覚めさせるには、心眼が必要となる。

 心の貧しき者(霊を求める者)は幸いなり、天国はその者のためにある。

 神を求める者は幸いなり、神はその者のなかで目覚める。






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Last updated  2016年08月05日 09時52分30秒
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