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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2023年07月07日
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カテゴリ:神秘体験空間
日本では、ドラゴンボールの孫悟空のモデルである西遊記の孫悟空と、お釈迦様のやりとりは、わりと有名な話になっている。

孫悟空の「西遊記」 【第3話 釈迦の手のひら】-広州をこよなく愛する「孫悟空」のホームページ (ttcn.ne.jp)

孫悟空とお釈迦様の智慧比べ | 毎日の気づき配信 (kizuki-delivery.net)

孫悟空の名前からわかるように、孫は、祖先-親-子の関係で、父なる神ー善天使なる聖霊ー子の人類で、つまり神の子の人間で、人間は唯物論ではサルから進化したと思われている。だから悟空はサルから進化して、空を悟ったと思い込んだ名前だ。

唯物論でサルから進化した人間が空を悟った名だが、実は、お釈迦様の手の平のなかで遊んでいただけ、というわけである。


孫悟空がお釈迦様の手から出られなったのは、修行が足りないせいで、人類のほとんどが孫悟空と同じで、修行が足りないせいで、ルシファーの叡智に頼りきって、物質的に生きているせいで、物質界から出られないのと同じなんである。

どんなに遥か彼方に、宇宙人の消息を探そうと、その物質的痕跡を辿ろうと、物質的にはどこでもいける宇宙船のような筋斗雲に乗って、悟空のように、柱のようなものをみつけ、自分の名を記しても、お釈迦様の手の指に落書きするようなもんなんである。

悟空はお釈迦様と会話できているのに、お釈迦様が、自分と同じ存在だと思い込んでしまっているのである。お釈迦様は、悟空の立場まで降りれるが、悟空はお釈迦様の立場にいくには、まだ修行が遥かに足りないのである。

さて、巷では、現代科学が、生命の起源を物質的に探求しているようだが、シュタイナーによると、既に中世において、フランチェスコレディというイタリアの科学者が、「生命は生命からしか生まれない」と説いているのに、耳を傾けないようである。

フランチェスコ・レディ - Wikipedia


ルシファーの権威にすがり、アーリマンの錯誤に陥っている唯物論信者の現代人は、物質界が全てと思い込んで、全てを物質現象で物証しようと、科学実験を行い、実験装置などを駆使して、生命現象を再現しようとするが、その再現を行おうとしている肝心の実験者についての物証ができない盲点に気づいていないから不可思議である。

宇宙現象を、物質的に解明しても、それを解明しようとしている科学者の動機や、解明するために必要な知性や、知性による論理的に構築された理論がどこからくるのか、については解明できないのが、解明できていないから、要するに、人類よりも遥かに賢いルシファーの罠にハマっているのである。

前回紹介したように、なによりも、人類が用いている知性こそ、ルシファーからの借り物だからである。

ルシファーの叡智の実を食べる事で、人類は物質界を物質体に受肉する事で、太陽光の可視域を基盤にして、物質的な人生を覚醒意識的に体験し、物質的自我から、物質理論を構築してきたのが唯物論で、その自我からつくった唯物論を、物証するのに、これまた人類よりも遥かにルシファーよりも更に賢いアーリマンの錯誤を用いているわけなんである。

つまり、人類よりも遥かに賢い悪魔の証明に、その悪魔よりも遥かに賢い悪魔を用いるために、悪魔を招いているわけなんである。

ここに振り込め詐欺と同じ構図がある。

悪魔を証明するのに、悪魔を招いてしまったら元も子もない。毒は毒をもって制すというのは、物質的には成り立つかもしれないが、それには、中道の精神、バランス感覚が必要なのである。

キリストは、一方の頬を打たれたら、もう一方の頬を出せといったが、それは、少なくとも、物質的な意味ではなく、精神的な意味、道徳的な意味で説いたのである。

物質的な破壊力に対して、破壊力を用いれば、より破壊が進み、崩壊し、破局を迎えなくてはならなくなる。物質界は破局を迎えると、物質的に無の世界に辿りつくしかない。

物質的に無の世界とはどういうところかを、物証できないのは当然だが、不可思議な事に、物理学では、無の世界を示せる唯一の法則がある。

それは熱力学第2法則のエントロピー増大の法則なんである。

エントロピー - Wikipedia

この熱エネルギーの不可逆性が、唯一物質的に、つまり、生命を物証できる法則といえるだろう。

物体を、物質的に分解していくと、例えば、分子や原子に破壊し、分解していくと、物体は分子や原子からなることがわかるが、それら分子や原子の細切れになった一部を全て集めてきて数えて、算術的に、全体を換算すると、元の物体と、物質量においてはほとんど同じになるかもしれないが、形態的に同じではないのは、物体を結合に導いている力の働きを無視していることになる。

だから、全てを物質的に解析しても、数学的に微分して、その全てをかき集めてきて、積分しても、エントロピー増大の法則から、時間は後戻りできないので、物質的には、破壊力に対抗できないのである。

つまり、破壊力に対して、抵抗するには、物質的な結合力が必要なのが、物質的にもわかる。

現代物質科学は、これと似たような手法を、生命に適応しようとしている。

現代科学は全体から一部を取り出して解析しているが、全体から一部を取り出した時点で、ルシファーから叡智を借りてるのと同じで、元に戻しようがないのである。

というのも、生命現象は、生命の樹のように、全体の流れから決まる現象だからである。それをエントロピー増大の法則は表現している。

このエントロピー増大の法則こそが、叡智の存在を意味している。

そして、物質的な結合力を実験室で成立させようとしている存在こそ、実験者そのものなんである。だから少なくとも、実験をする以前に、実験者の存在、少なくとも、その知性を物証しなくてはならないのである。

つまり、エントロピー増大の法則を成立させた知性の存在を物証しないといけないわけである。

その知性こそが、人類がルシファーから食べた知恵の実なんである。人間はルシファーの知恵により覚醒意識で生きるようになったが、同時にそれは覚醒意識の死をもたらした。

物質現象を追跡し、体験する間は、覚醒意識は生きていると感覚的に感じられるので、死を感じなくてすむわけで、その意識を基にして、物質運動を基点にして、時間の推移が体験でき、時間の理論ができた。

そして更に、太陽光の可視域の体験をもとに、時間論は、光速度を加え、近接作用と呼ばれる、電磁気力的な空間伝播を定義し、相対論的な時間の時空論ができた。そして、光の運動を基に、重力を時空間に数学的に拡張できた。

そして、物質は、空間の歪みから生じる一般相対論に至り、人類は、物質界の境界まで、物質界の壁に到達している。

人類は、孫悟空の乗る筋斗雲を手に入れた。

そして、いま、孫悟空が、お釈迦さまの手の指に、自らの名を記すように、人類は、ルシファーの叡智に、人類の名を刻もうとしている。

しかし、それは某解剖学者で有名な唯脳論を唱える前に唱えたバカの壁に、科学は全てを解明すると落書きし、バカを物証しながら、ションベンをかける行為と何が違うのだろうか?

物質こそ、生命の起源であり、炭素を含む有機物と、DNAを成すリン酸と、生命を生む環境に適度な高圧力が、その物証なのであると、物質界を超えることなく、その壁に、自らが生命存在の起源でもあるのに、それを忘れて、自らの名を、自我を物質性に売り渡すのである。

それではまるで、悪魔たちだけにウケる、お笑い芸にすぎないのではないだろうか?

アーリマンの高笑いが物質界に響き渡るのが聴こえないようである。

エントロピー増大の法則の偉大さに気づかないようである。

お釈迦様の差し出した手の指を乗り越えるのを知らずに、それを物質界の大きな山のように感じ、バカの壁のなかに、自らを束縛し、自我がバカの壁のなかで身動きがとれずに、頭脳を締め付ける孫悟空の頭の輪の緊箍児(きんこじ)と同じである。

緊箍児(きんこじ)あなたの頭にもある?孫悟空の輪 – プレマのニュースレター らくなちゅらる通信WEB (binchoutan.com)

さて、シュタイナーによると、物質とは、宇宙全体から割り当てられた空間の特性である、という。素粒子は、光が凝縮したものであるという。つまり、会社組織でいえば、各職場での地位、ポジションみたいなものである。

昭和時代では、会社組織の歯車という表現がよく使われたが、会社を機械的に考えるなら、物質は、歯車そのものである。

しかし、会社は機械ではなく、機械であったとしても、それを動かす知的生命的存在が、必要で、歯車を巧く動かす潤滑油や調整をする生命体がいなくては、機械を動かす意味や目的が生まれない。

ただ物質的なやり取りだけでは、死んでいるも同然で、機械が故障するのは時間の問題である。

つまり、唯物論は、全体の一部を取り出して、その一面を拡大し、単純に展開して、その展開している知的推移を担う人間そのもの、知的生命体を除外してしまうのである。

とどのつまり、人間も、地球人という宇宙人なのを忘れてしまっているのである。

人間が宇宙人であること。それは、宇宙から愛されている証で、だからこそ、人間には物質を統合する力、つまり愛の力があるのである。

愛は、高次の存在からの贈り物である。愛があるから、人間は成長し、成長を振り返って、愛を知る。

愛がなければ、生命は成長できない。ルシファーの叡智を超えて、前進できない。

ルシファーの後退に対する前進こそ、破壊力を超える力こそ、宇宙から万遍に注がれる愛の光なのである。

その愛の光が熱となって、熱力学第2法則のエントロピー増大の法則から、人間に注がれているからこそ、人間は生命体として、カルマを通じて、ルシファーの叡智を超えて、前進し、前世から前進した道徳的行為を努力して達成できるエネルギーを得るのである。

宇宙から莫大な愛が注がれているのに、宇宙人たちが地球人を心配して、愛を贈っているのに、人類はいまだ戦争、闘争、論争に明け暮れて、自由な愛の天使となるには、孫悟空のようにまだ遥かに修行が足りない。

孫悟空のように、人類はまだまだ修行が足りずに、輪廻転生して前進する運命にあるのだろうか?

孫悟空の頭の輪のような唯物論から、人間は、いつ自らを解放するのか?

物質界を超える、「定心真言」という心の言葉が流れてくると、悟空の頭の輪は、それが理解できないから、唯物論の知性レベルでは解き明かせないので、忽ち、バカの壁に、頭脳が締め付けられ、押し潰されて、人間は悲鳴をあげるしかない、お手上げなんである。

真言密教を伝える、弘法大師のような霊能力者のお坊さんがいれば、悟空のような現代人もまだ浮かばれる沙汰があるが、残念ながら、現代人は自分で修行して、定心真言を解読するしかない。

孫悟空に三蔵法師が必要だったように、人類には、平和で幸福になるための教えを説く学問が必要なのかもしれない。某CMの女優のように、「そこに愛はあるんか?」と説く学問が必要なのかもしれない。

宇宙から注がれている愛に気が付けばよいだけである。人類が滅亡せずに、成長し、進化できたのは、この愛が故なのである。

人類は愛を感じ、愛を生かす術を学ばなければならない。

自分のなかの愛を感じた時に、宇宙人の存在は明らかになる。それが宇宙人が地球人に贈る愛の証である。

愛があるから生命があり、生命は愛を知って、物質を創造できる。

人間は独りで生きられない。愛がなければ成長できない。

宇宙から注がれる愛の生命体として、自由な愛の天使となるために、シュタイナーの人智学的医学を紹介する。

           ★      ★       ★

 さて続いて、膀胱の働きが不十分な場合を考える。多少素人じみた表現だが、今日の科学用語よりは真実を現わしている。膀胱の本質は、吸引活動にある。膀胱は、人体に空洞化し、周囲を引き寄せる。

 膀胱は根本的に、人体の空洞化により機能している。体内の膀胱の働きは、水中に気泡をつくる働きと同じである。水中の気泡は物質の気化から生じ、気泡の周囲は水などの液状の物質に取り囲まれている。

 この物質の気化から生じる液中の気泡の働きは、膀胱が人体に及ぼす働きと同じである。その結果、膀胱の働きの妨害となるのは、次のような行為である。

 「人体を不適切に活動させる行為、例えば、食物を充分に噛まずに、飲み込んだり、消化のために、適切な休息をとらずに、運動の節度を守らずに、消化を妨げる活動である。」

 消化活動など、人体内の適切な活動を妨げると、膀胱の吸引活動も妨げる。

 さて、長距離の移動などで、ずうっと座ったり立っていると、心臓に不規則さを感じたら、自主的に運動をするのがよいが、消化活動など人体内の活動を調整しようとしても、日頃の習慣から容易ではないだろう。

 とはいえ、次のような方法がある、

 「食物を噛まずに飲み込んだり、消化のために適度な休憩をとらないなど、消化を妨げる習慣をもつ人を、気象環境により治療できる。つまり、酸素の多い空気のなかに連れていくとよい。」

 このような空気のなかでは、呼吸活動が多くなり、潜在意識的に、呼吸活動が慎重になる。すると、この呼吸活動の調整から、潜在意識により、他の活動の調整へと移行する。

 だから、このような膀胱の不規則な機能に悩んでいる人は、できたら、より酸素の多い空気のなかに連れていければ、生活環境の変化から、不規則性に均衡をもたらせる、のが期待できる。

 特に重要なのは、広義の気象に関係する第3の臓器に注意を払う事である。この第3の臓器とは肝臓である。人体のなかでは、一見外界と遮断されているように見えるが、肝臓は、高度に外界に組み込まれ、対応している。

 肝臓が外界に組み込まれている事は、肝臓の状態が、周囲の水の状態に常に左右される、のを確かめればわかる。そもそも、肝臓の状態を正しく見通すには、住んでいる周囲の水の状態を調査する必要がある。

 味覚活動は肝臓の発達を促進させるが、過度な味覚活動は肝臓を退縮させる。つまり、多飲食、過飲食の消化活動は、肝臓を退縮させる。口蓋と舌で行うはずの飲食を、下にまで継続させ、つまり、よく噛まずに飲み込むと、食事に対する喜怒哀楽を度外視して、肝臓の退縮をもたらす。

 従って、実際に確かめるのは困難だが、肝臓に支障がある場合、味覚活動のなかに、何らかの習慣を見つけてみるべきである。

 また、肝臓と、周辺の水の状態との関係を、厳密に探究するのは更に困難である。というのも、その依存関係は究めて霊的で、例えば、周辺の水が石灰を含む場合(硬水)と、あまり含まない場合(軟水)とでは、肝疾患が異なって発生する等も考えないといけないからである。

 周辺の水から、出来る限り石灰を遠ざければ、肝臓の活動が促進されるのに注目すると良い。勿論、その方法を見つけ出す必要がある。





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Last updated  2023年07月07日 18時17分32秒
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