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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2023年07月12日
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カテゴリ:神秘体験空間
宇宙人と交信するには、神の愛を芸術的な言語にする必要があるが、日本はそれにふさわしい、俗に神の国と偽右翼が豪語しているが、そのような芸術的観点をもっているのか、改めて、考えてみたい。

現代の日本は、芸術立国というよりも、物質経済立国という面が強く、その罪滅ぼしに、アニメ立国という風になっているが、そのオタク面においては、芸術というよりも、経済的利益を追っているようにみえる。

それは観光立国を掲げてはいても、芸術の国というよりも、どこか経済的利益を感じざるを得ない。

日本が明治維新で、西洋化したのも、物質的脅威や、経済的脅威に対して、看板を挿げ替えただけで、精神的に芸術化できたのか、の課題はまだ残っているようにみえ、宇宙人と交信できる段階にはまだまだ修行が足りないようにみえる。

そこで、江戸の幕末に、精神的に、芸術的に、覚醒した人物を取り上げて考察してみたい。映画のラストサムライは、西郷吉之助がモデルだが、本当のラストサムライは、以下に紹介する人物のようにみえる。

ラスト サムライ - Wikipedia

「晴れてよし、曇りてよし 富士の山 元の姿はかわりざりけり。」とは、江戸幕末の三舟といわれた一人の山岡鉄舟の禅の言葉で、これは鉄舟が、禅の師に、毎日富士山に行くのを日課に禅の修行を命じられて、悟った句である、といわれている。

禅の言葉:晴れて良し曇りても良し富士の山、元の姿は変らざりけり - Megurecaのブログ (hatenablog.com)


【晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は かわらざりけり】(山岡 鉄舟)|コバタケ (note.com)


偉人の言葉: 山岡鉄舟の名言晴れてよし 曇りてもよし 富士の山― (ijinnokotoba.blogspot.com)


山岡鉄舟の禅について: 山岡鉄舟研究会のブログ (cocolog-nifty.com)


私はまだまだ修行が足りないので、鉄舟の、この悟りの境地はわからないが、眼に映る日々の富士山のなかに、生命力、つまり愛を感じていたようにみえる。

鉄舟の偉いとこは、この句で悟っただけでは飽き足らずに、更に剣の修行に打ち込んで、無刀流を築いて、禅は実践だと体現し、自然から学ぶ姿勢を獲得し、現世に執着しなかった点にある、といえるだろう。

最上の諦めの境地に達していたようにみえる。心が居つかないようにするのが、禅の奥義らしい。釈迦に出会えば釈迦を殺せ、というようなもんである。

鉄舟はまた次の言葉を残している。

「無刀とは、心の外に、刀が無いこと。敵と相対するとき、刀に拠ることなく、心を以って心を打つ、これを無刀という」、「自然は教師なり、自然を眺めて学び、自然に即して考える」

老子の無為自然と同じような思想が伺える。

無為自然の意味 (tao-academy.jp)

つまり、仏教の心眼や霊眼、心耳や霊聴を獲得し、人智学でいうところの、物質界の奥にあるエーテル界やアストラル界をみていたようである。

シュタイナーによると、この宇宙のどんな存在にも愛が流れているという。愛が結びついて、存在を成すという。プラスとマイナスは、それが物質的に表現されたものである。陰陽の二元性は、奥に隠れた愛の一元性が、表面上には、歪んで分かれてみえる。

心が偏るから、1つが2つに分かれて、感情が生まれる。心の歪みをなくせば、心に平静、平和をつくれば、自然と愛の一元性がもたらされる。

物質は、愛の一元性が、低次で現れている幻のベール、仮面にすぎない、と考えるのが人智学や神智学などの神秘学である。

だから、晴れても、曇っても、それは幻想の姿で、偏った自分の心の働きにある。その心の働きを捨てて、虚心坦懐に、諦めれば、富士山の愛の働きがよくみえ、聴こえる、というわけである。

快川和尚の、心頭滅却すれば火もまた涼し、と同じである。

周囲を変えるのではなく、自分を変えるのが、愛の働きといえるだろう。

しかし、物質的思考に陥ると、何かを期待する心の働きが、物欲に通じ、心を歪ませて、物質性を印象的に意識的に捉え、脳にその映像を送り込み、当てが外れて、無責任になんらかのせいにしがちになる。

善や悪を自分で決めておいて、その通りにならないと、何かに当たり散らすのはお門違い、というわけである。予め答えを予想し、期待しながら、期待通りの答えがされなくて、不満を言い、ストレスを貯めてしまう。

天国に行くのを期待しながら、ハードルを上げてしまい、地獄に堕ちる。

俗な例えだが、競馬の馬券を、オッズを見て買うと、ほぼ当たらない経験をするだろう。また逆に1番人気が必ず勝つわけでもない、のがわかるだろう。オッズをつけるのは人間で、ウマはただ競馬を走るだけで、ウマの走りは、人間への愛情表現でもある。

人間は物質界をみて、ついエゴが生まれて、皮算用してしまう。自分のウマが勝たないと文句をいってしまいがちだ。それは、ルシファーの叡智に踊らされ、何らかの報酬を期待してしまうからである。

作為が生じてしまいがちである。

宇宙はあらゆる生命を愛し、自然は万人に平等に働く、人間だけが、自分勝手に贔屓して、当てが外れてしまいがちである。

贔屓目でみずに、確実に今を捉えれば、つまり、今種を蒔けば、自然と、未来に花を咲かせ、実がなる。今なすべきことをなさずして、将来に期待するな。

手放さずして、得られるものはなく、虎穴に入らずんば虎子を得ず、という諺もある。

シュタイナーの人智学や神智学、神秘学は、物質知を超える険しい山登りみたいなもので、霊眼、霊聴の獲得の修行は、険しい山登りといえるかもしれない。今生だけの修行で得られるものではないだろうし、また、上には上があり、下にも下がある。

今を正しくみて、生きる、のはなかなか困難である。明日を期待し、過去を懐かしみがちである。今に生きる、今、愛を感じるのは、険しい道のりだが、宇宙は愛を常に送って祝福してくれている。まずは、愛情を、日々の芸術から感じる必要がある。

さて、今の日本の生活は、芸術的といえるだろうか?

大谷選手のホームランは芸術的にみえるが、今の日本社会はどうだろうか?

芸術よりも、経済優先にみえる。愛を感じるよりも、金銭を感じ、金銭勘定的に生きがちな社会で、まるで、キリストに、弟子にしてくださいといった金持ちを思い出させる。

キリストは、金持ちが、金銭に執着し、金銭の奴隷になっているのをみて、金銭を全て恵まれない人に与えて、ついてきなさい、と言ったが、金銭の奴隷がやめられずに、キリストの高次の愛に触れても、物質的感覚から抜けられなかった。

キリストが、近くを通っても、家に招き入れることができずに、悪魔に洗脳された偽教団が盛り沢山の社会である。

物質界を生きるには金銭が必要だが、そのパスポートは、死後の世界では通用しない。それでは、晴れてよしだが、曇るとよくない、富士の山、元の姿はわかりざりけり、である。

なんでも唯物論で捉えれば、愛に不感症になった、金銭だけにあざとい薄っぺらな人間になってしまうだけである。唯物的に解釈するか、精神的に解釈するかで、真逆の世界が現れる。

例えば、日ユ同祖論があるが、これを唯物的に捉えるとトンデモになりがちである。何かを期待して、日本人の選民性を期待するために、このような仮説を持ち出すのは大間違いの元なんである。

以前、このブログでも紹介したが、日本-ユダヤ同祖論の根拠になっているのが、日本語とヘブライ語の類似にあり、日本の古い歌が、ヘブライ語で読み解ける話である。

             ☆       ☆       ☆

「君が代」「かごめかごめ」など 歌の中に隠されていた日本とユダヤの秘密|日出処の猫 (o-oi.net)

「かごめかごめ」

日本語      「ヘブライ語」     (ヘブライ語の意味)

かごめかごめ   「カゴ・メー カゴ・メー」(誰が守る? 誰が守る?)
かごの中の鳥は  「カグ・ノェ・ナカノ・トリー」(硬く安置された物を取り出せ)
いついつでやる  「イツィ・イツィ・ディ・ユゥー」(契約の箱に封じ納められた 神器を取り出せ)
夜明けの晩に   「ヤー・アカ・バユティー」(神譜を取り 代わるお守りを作った)
鶴と亀がすべった 「ツル・カメ・スーベシダ」(未開の地に 水を沢山引いて)
後ろの正面だ~れ 「ウシラツ・ショーメン・ダラー」(水を貯め その地を統治せよ)

「君が代」

日本語    「ヘブライ語」 (ヘブライ語の意味)

君が代は   「クムガヨワ」 (立ち上がる)
千代に    「テヨニ」   (シオンの民)
八千代に   「ヤ・チヨニ」 (神・選民)
細石の    「サッ・サリード」(喜べ・人類を救う、残りの民として)
巌となりて  「イワ・オト・ナリァタ 」(神・予言・成就する)
苔の生すまで 「コ(ル)カノ・ムーシュマッテ」(全ての場所・語られる・鳴り響く)

立ち上がれ、神を讃えよ
神の選民 シオンの民
選民として 喜べ
人類に救いが訪れ
神の予言が成就する
全地あまねく 宣べ伝えよ

「さくらさくら」

日本語    「英子音表示」 (ヘブライ語の意味)

さくら さくら 「SKR SKR」 (隠れた 隠れた)
やよいの空は 「YYH YN SRH」(唯一の神が迫害され 耐えて)
見わたす限り 「MWT KGR」 (犠牲として死に)
かすみか雲か 「KSM KMK」  (くじ引きにされ 取り上げられた)
匂いぞ出ずる 「NOH YZR」  (素晴らしい神の計画)
いざや いざや 「YZY YZY」   (神の救い 神の救い)
見にゆかん  「MN YK」   (捧げ物を決めた)

〈神が)隠れてしまった。
唯一の神が迫害を受け、耐え忍び、
死んで犠牲となり、
くじで引かれ、取り上げられてしまった。
素晴らしい神の計画である。
救い、その救いの捧げものが成就した。

              ☆       ☆       ☆

このブログでも頻繁に紹介している八切史観では、ぺーの、平氏の祖先は、ペルシャから渡来し、モーセの赤色を基調としたペルシャ文化を広めた、と説いているが、日本の昔話でも、赤鬼伝説として描かれている。

その文化から、上に紹介した歌を、読み解くと、カゴメが、人間の歌で、君が代が、神の愛の歌で、さくらさくらが、キリストの歌であるのが、次のようにわかる。

カゴメ
誰が守るのか、人間が守るのです。固く安置された=物質界のなかから、取り出しなさい。物質体=契約の箱に封じ納められた神器=愛=愛の掟=十戒を取り出して、守りなさい。愛を取り出して、十戒として、愛のお守りをつくりなさい。そして、愛の未開の地の、物質界=肉体に、生命の水=エーテルを引いてきて、生命の水に愛を貯め、その未開の地=物質体=物質界を統治し、愛により物質界を解脱し、克服しなさい。

纏めると、

カゴメ
守れ、守れ、物質界のなかの愛を、神の愛に目覚めるのはいつ、神の愛が人の絆にかわるとき、愛の絆が、鶴の天の翼、亀の地の甲羅のように、広く着実に、水のように拡がり、物質界を愛の絆で織りなし、満ち溢れるものにして、宇宙の愛にまで昇華しなさい。

君が代
立ち上がれ、神を讃えよ 神の選民 シオンの民 選民として 喜べ 人類に救いが訪れ 神の予言が成就する 全地あまねく 宣べ伝えよ

君が代を読み解く
ヤハヴェによる神の愛を感じなさい 天から追放されたが、神の愛を信じた民 神の愛の信者たち 神の愛に喜べ 愛は必ず成就する 物質界に広く、愛を伝えなさい

さくらさくら
〈神が)隠れてしまった。唯一の神が迫害を受け、耐え忍び、死んで犠牲となり、くじで引かれ、取り上げられてしまった。素晴らしい神の計画である。救い、その救いの捧げものが成就した。

さくらさくらを読み解く
太陽霊キリストが、太陽から隠れ、地に現れた。人類に自我を与えた神が、地で人間の自我に迫害され、肉体をもって耐え忍び、肉体を捨て、死んで犠牲となり、その教えは衣服として、くじ引きの輪廻転生で、物質界に染まった人間に、カルマとして取り上げられた。キリストの降臨は、神の人類の進化計画である。キリストの救いにより、人間の死は、キリストの犠牲により、キリストの自我を衣服として受け入れ、カルマとして着る事で、カルマを成就することで人間は進化していく。

以上のように、さくらさくらは説明が長くなったが、全て神の愛の解釈で、読み解ける。物質界を超えて、神の愛を読み解くために、シュタイナーの人智学的医学を紹介する。

          ★       ★       ★

 さて、いまある関係に注意するのが重要である。まず、嗅覚と味覚において、物質が提示する活動を追求するなら、嗅覚は、他の可視活動に導き、味覚は物質内に隠された活動に導くが、消化もそのように考えるなら、次のような結論に至る。

 「消化の始めでは、物質活動は溶け合い、混ざり合っている。しかし、消化活動が進むにつれ、混合を再分離するようになり、物質の分離というよりもむしろ活動の再分離がなされる。」

 そして、栄養摂取時の、この活動の再分離こそが、エーテル体の大きな課題の1つである。エーテル体が、第一に取り掛かるのは、混合活動の再分離であり、つまり、腸を通じての排泄と、尿を通じての排泄の区別である。

 このような探究から臓器にアプローチできるが、臓器の治療には、医師の直観力=神通力(天眼)が必要となってくる。尿の排泄には、人体で素晴らしい活動を行っている腎臓にアプローチしないといけないが、奇妙にも、その活動でも枝分かれしている。しかし、この事については後述する。

 さて、以前示したように、腸の排泄活動は、脳の活動と関係し、つまり、この2つは互いに関係し合っている。同様に、尿の活動は、心臓の活動と関係している。

 だから、根本的に、腸の排泄活動は、脳の活動、つまり自然の珪酸活動(プロセス)を模した人体の活動に関わり、尿の活動は、心臓の活動、つまり炭酸活動(プロセス)を模した活動と関わる、のがわかる。

 そして、この自然の珪酸と炭酸との関係を通じて、人体の健康と、病気とが結びついているのがわかる。

このような自然の関係から、人体活動の関係性を指摘したが、それらを物質的に観察してはならない。物質の背後の霊的な関係に精通してはじめて、以前の講義後に、シャイデッガー博士が、説得力の言葉で表現した、類似性の法則が、正しく評価できる。

 この類似性の法則は究めて重要なので、今回の考察で得られた人体活動の関係性に基づいて、この類似性の法則を再構築すべきである。というのは、今回の議論の背後には、人間と鉱物の関係が隠れているからである。

 自然の珪酸の活動が、人体には、生成活動となり、炭酸の活動が、人体には、再分離活動となるのを、探究すれば、人体の生命活動が、珪酸の生成と、炭酸の再分離の2つの活動のなかにある、のがわかる。しかし、人体を生成する珪酸の活動を調べる際に忘れてはならない事がある。

 以前、ある程度暗示したが、珪酸の活動と似た人体活動は、鉱物とも関係し、つまり鉛、錫、鉄などと関係するので、次のような結論に至る。

 「心臓より上位にある臓器の治癒原理を探すなら、珪酸の活動と、鉛、錫、鉄の活動との相互作用に注目すればよい。」

 鉄は、肺の活動と強く関わり、錫は、頭部全般の活動に、そして鉛は、主に骨の活動に強く関わっている。というのは、骨の構造と成長は、本質的には、人体上位から発せられ、下位ではないからである。





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Last updated  2023年07月12日 17時43分09秒
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