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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2023年07月27日
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カテゴリ:神秘体験空間
現代の科学では、物証できない仮説は、似非科学であり、前回、物質科学の欠点が物証を基にした観測にあり、観測を行い、物証を確定する人間そのものを、例えば、脳科学などから、錯視の物証を、検証できなければ、物証の観測論に基づく科学が、人間の物質性故に否定されてしまう、のを紹介したが、要するに、唯物論による物証が必要な科学は、その物質性から科学的に否定されてしまうのである。

というのは、物質性とは、なんらかの意志の下に、その性質を付与された固体性の存在だからである。

素粒子という物質性も、物質界を前提にした対称性や、統計性の概念から生じる固体性の粒子存在である。それが波動性をもつのは、その固体性が、なんらかの意志により、運動しているとみなすのが、物証による観測論なんである。

つまり、物証による観測論を行うのが人間という生命体なので、波動性はそのまま、人間のなかの生命性に帰され、人間が物質だけの存在でないのは、人間の日々変化する物質性から、その死が予期できない事から明らかである。

というのは、人間は呼吸しなければ、直ちに崩壊し、死んでしまうからで、どのくらい呼吸すれば生きられるかは、物質的には解析不能だからである。

人間が、物質のみで生きるわけではないのは、生命体の呼吸の原理を、厳密に観測すれば明らかで、呼吸から主観性が生まれる、のがわかるはずなんである。何より、愛というのは客観的には存在しないからである。

愛は主観性から発生し、客観性へと辿り着く。

宇宙の変化を人間が呼吸で取り入れるから、生命として生きる、のである。宇宙の主観的な愛が、人間に到達し、物質的な客観性が生まれる。

宇宙の主観的な愛の働きが、地上の物質の客観性の方向性を決める。

というのも、客観的な立場とは、物質性のみの、太陽光などの光が反射した、一部を取り出して観測、検出している状態を意味し、その客観性と呼んでいる物質的事象の背後には、物質を運動させる、意志させる主観的な働きが、宇宙の意志が隠れているからである。

客観性というのは、主観性を無にした、つまり主客逆転したカルマの法則のなかで、はじめて成立するもので、それこそが、精神の働きのなせる業で、唯物性からは生じないものだからである。

現代科学は、アインシュタインの一般相対論で、宇宙を客観視でき、物質的に全て解釈できるという洗脳に陥っているが、それは、人間の一部で感じる、肉体で感知できる、知覚域の話でしかない。

現代科学では、この客観性を、CP対称性に求めているが、それは、カルマの法則や、人間の精神性を無視し、全てを物質に帰している非科学性に由来している、のに気づいていないから不思議でもある。

CP対称性の破れ - Wikipedia


つまり、人間が人間自身を、唯物的に解釈できない矛盾から、CP対称性の破れが、唯物性となって生まれているのに、気づいていないのである。

オカルトとバカにしていた物質科学が、そのオカルトであるダークマターに取り込まれまいとして、悪魔の罠、ブラックホールの洗脳の縁に陥るのを回避しようとして、CP対称性を持ち出すが、それが悪魔による悪魔の証明であるのに気づいていないから、面白い。

ブラックホールがあるのなら、ホワイトホールもあるはずである。

物質が反物質より多いのではなく、物質を物質界からみているから、そのような錯視が生じるのである。

というわけで、唯物教の唯脳科学にまで進んだ、時代を先取りした現代の物質科学を人類が我が物顔で宇宙を跋扈し、このまま継承し続け、発展させると、北海道の唯物論者のイカレタ精神医学者のような過保護ゆえの某殺人事件が、多発するようになっていくだろう。

物質的な死体をいくら解剖しようと、動物実験をいくら繰り返し、その死体を解剖しようと、生命の法則はカルマに帰するので、物質的な解剖、つまり物質的な分解の堂々巡りをくりかえすだけなんである。

だから、毒災者が死体を山積みにしても、似非狂祖が権力と癒着し、恐怖の悪魔で、同胞の肉を食らおうと、死んだら、無になり、チャラになると、自己破産すれば済むと開き直り、そのカルマによる、罪の大きさを自覚できないわけなんである。

現代人は、毒災者や、似非強狂教祖のような、極端で自堕落な精神異常者をみればわかるが、それは一種の病で、物欲や権力欲による病気で、精神が異常なのではなく、唯物論に固執し、地上に生きる事、実は死体に生きる事に執着している病気に罹っているのである。

生命は生命から生まれる原則を忘れ、いずれ天に帰っていくのを忘れ、地に、物質に執着するあまり、病気に罹っているのに、それも大病なのに、気づかないでいるのは、他の悲鳴や苦痛を、他を思いやる心を忘れ、宇宙の愛を感じられずに、ただただ耳を閉ざし、知覚が麻痺し、ルシファーの錯視から、アーリマンの物質支配に、心が囚われて、自我がエゴに食われて、自分さえ良ければ良いというような、究極の自己保身に走ってしまっている大病に罹ってしまったからである。

人間は、地上の生だけを、生と捉えると、病気に罹るようになっている。それは、人間が、本来、宇宙からきた、宇宙人の証拠なんである。人間は、宇宙意識からくる愛によって生きるからである。

人はパンのみにて生きるにあらず、神の言葉、愛によって生きる、とキリストが言った事を忘れてはならない。

宇宙から来る愛を、身近な存在、自分よりも低次な弱い立場の存在に与えて、愛を返さないと、愛の交信は成立しない。宇宙は最も高次の存在だが、同時に最も低次な存在でもある。

愛の流れが、水のように、上から下へと流れ、地球での水の循環のように、宇宙の愛の生命の循環として流れないと、どこかで、その愛の流れが滞ると、血流に血栓ができ、その血管から組織が拘束し、壊死するように、物質性、固体性を失わないと、愛が、執着し、恨みや、憎しみにかわってしまう。

だから、いわば毒災者や似非強狂祖たちは、人体の腫瘍や癌腫のような存在といえるだろう。このような存在は、もはや人類には手遅れの存在なので、いくら宇宙が愛を送ろうと、それをエゴで物欲や執着心にかえてしまうので、その低次な存在に、低次な死が訪れるまで待つしかないのだろう。

また人類はそのうち地球から、宇宙に出ようとしているが、宇宙に出るという意味は、物質界を超える事で、本当に物質性を克服するには、生きているうちに、死後の世界を知る仏になるのと同じで、つまり、霊能力を獲得するのと同じで、宇宙に出なくても、宇宙の愛を体現できる生命体になることなんである。

さて、人間は、宇宙全体の愛、宇宙意識の愛の循環が、宇宙から太陽系の太陽光となり、地球に降り注いで、天と地の間の大気となり、空気となり、その太陽光を含んだ空気を、呼吸し、酸素を取り出して、人体のわずか10%の固体の物質体のなかで、熱で燃やし、炭素と結合し、炭酸を出して、新しい物質構造の物質体をつくり、宇宙の愛を成就し、生きる。

だから、宇宙の愛と地球の愛を取り持つのが人間の働きなんである。

それは、地球の重力の働きを、太陽光の呼吸により、悪を善にかえる愛の働きでもある。地球を宇宙の進化の法則に軌道修正していく働きである。だから、人間には、太陽の使者キリストから、自我が与えられたのである。

自我は欲望に塗れるのではなく、高次の愛に目覚めるべきである。

あまりに低次の物欲、地への支配欲、地上への執着をもつと、人間は病気に罹り、本来の高次への目覚め、愛の働きを忘れてしまう。

だから、患者を癒すには、身近な愛が必要なのである。医療とは、低次の欲望を、高次の愛に昇華させる事なので、患者の欲望の原因を探し、欲望を捨てさせ、克服させるために、高次の愛を注ぎこまなくてはならない。

だから、病気は、物質科学では解明できず、ましてや脳科学では、新しい物欲、自己承認欲による病気を発生させるだけである。しかも、現代では、全てが銭勘定で、愛の精神の働きを無視し、物欲、執着を益々増長させ、自我のエゴ性を巨大化させるだけなんである。

宇宙に物質的に出なくても、精神的に愛を感じられるように、人間は物質的な地球人ではなく、愛の宇宙人で、自由な愛の生命体の使命を負っている。

人間は本来、愛の宇宙人であり、愛の宇宙、つまり天国にかえって行く存在である、その高次の知性をもつために、シュタイナーの人智学的医学を紹介する。

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すると、次のような疑問が浮かぶ、

 「人間は、宇宙の活動では末端の立場にあり、同時に地上では中心の立場にあるので、この二重性の成立のために、人体は、どのように働くのか?」

 人間の、この両極性が、人体では、異なって、4つの体(自我、アストラル体、エーテル体、肉体)として現われる。そして、肉体の、より末端部にいくに従い、人間を、物質的に形づくるように現われてくる。そして、末端組織の究極の目的は、他ならぬ自我の破壊に応じ、その見合った形で、肉体をつくる事なのである。

 だから、大まかにみれば、次のように言える、

 「人体の活動が、末端部=皮膚において、珪酸の活動と共に、働くのを、髪の毛の発毛状態から、珪酸の活動を調べるとよいだろう。」

 頭部の珪酸の活動が、どれだけ活発か、という観点から、肉体への自我の介入の度合い、もしくは、それへの抵抗の度合いが研究できる。ただ、髪の毛だけでなく、人体全体との比較が必要なのは勿論だが、通りを歩いている、髪が薄い人を集めてきて調べれば、珪酸活動が、どれくらい活発か、もしくは抑圧気味なのか、の傾向がわかる。

 霊視できなくても、この研究から、霊的な直観[Anschauung]が獲得できるが、このような事例から、自然の働きに深く参入できなくてはならない。

 自然の働きは、主に生成の創造力だが、それは細胞の生成力(細胞はむしろ破壊=変形力)ではなく、人体の姿=構造をつくるような設計図的な構造力=創造力[Totalgestaltungskraefte]である。

 毛が沢山生えているかどうか、などの皮膚の構造も、この創造力とみなせる。この末端部の活動に対して、中心部=自我に配される炭素や炭酸の活動は、その生成構造を再分離=解体し、破壊を行っている。

 人間は実際、中心の自我で、人体の構造を絶えず解体し、破壊し、逆に末端部では、再び、宇宙の力から、構造を絶えず再構築され、生きている。人間は、自我で絶えず人体構造を変形させ、破壊を繰り返し、その破壊を、宇宙から再生され、調停されながら、生きている。

 人間のなかには、この二重性、つまり創造[Gestalten]と変形[Deformieren]がある。この二重性が人体で共作用する。人体には一方では、末端に、宇宙(天)の創造力(下図参照、上からの矢印)が働く。この創造力は心臓において、地上(地)の変形=解体力(下図参照、右からの矢印)と出会う。

 心臓において、均衡=調停=バランスが作り出されるのは既に述べた。

では今度は、心臓に達する末端部の創造力が、心臓で均衡=バランスされる前に(下図参照、上からの矢印)、膨張し、充満する場合を考えてみる。

 この末端の生成=創造力が、心臓での均衡に至る前に、準備[Vorstauung]として膨張し、充満する、のを仮定すると、人体のなかでは、低レベルであっても、やはり、宇宙(天)の創造力が現われる、のがわかる。



 さて、この末端部の生成力に対立する反対の解体力、つまり消化活動を通じ、心臓にまで働く解体力もまた、心臓に到達する前に、前もって膨張する(上図参照、右側からの矢印)のを仮定してみる。

 すると、この膨張し、凝縮する活動は、人体の霊的や物質的な働き全てを、破壊し、変形する活動で、つまり、人体では実際は、頭や腸の分泌など液化のための、溶解液として、介入するが、心臓の活動に直結する前の、あくまで準備段階的な活動全般といえる。

これは、地球と、自我の中心から発せられた解体力が、人体で変形力となり、心臓に達する前の、準備段階で膨張する活動全般である。

 このような2つの仮定により、人間のなかの、この二重性を、固体化した器官が生まれる。つまり、末端の生成力から女性を現わす生殖 器が、また中心の解体力から、男性を現わす生殖 器が与えられる(上図参照)のがわかる。

 (女性が人体の末端に眼がいくのに対し、男性が中心に眼がいくのが、この違いからわかる。)

 女性を研究するには、宇宙-末端の生成力への依存性という観点から観察する必要がある。そして、男性は、地球-中心の解体力への従属性という観点から観察する必要がある。

 (女性が包容=生成力を求め、男性が権威=解体力を求めるのがわかる。女性が高次の愛の精神の犠牲、男性が低次の愛の物欲を求めがちなのがわかる。)

 人体を、科学的に深く探究する道は、この観点にある。また、この観点から、生成力=エーテルをもつ植物が、生成力が麻痺した子 宮を、どのように回復させ、治癒に導くか、という治癒原理がわかる。

 以上のような霊的な観点から、人体の生成力を研究すれば、植物や鉱物のなかの生成力も、見通せるようになる。このような事例を、個別に観察していくが、最初に、全体像に触れなくてはならない。





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Last updated  2023年07月27日 18時50分57秒
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