文久3(ぶんきゅう 1863)年頃、薩摩藩家老・小松帯刀(こまつ たてわき)は,京で祇園の芸妓・お琴と出会う。当時、小松は朝廷と幕府が協力して政治にあたる「公武合体(こうぶがつたい)」実現のために奔走していた。同じ志の公卿や諸侯の間をとりもつべく,上洛した薩摩藩主・島津久光が主催する宴席がしばしば開かれていた。お琴はその座敷に呼ばれていた。
やがてお琴は小松に身請けされ,来訪者の接待役という名目で京都の小松邸で暮らすこととなる。9歳年上の正妻・お近との間には子がなかった小松ではあるが,お琴との間には3人の子をもうけた。
明治3(1870)年,小松が36歳で死去。その4年後に,お琴も27歳の若さで病死。正妻・お近の寛大なはからいで,お琴は小松家の墓所に葬られた。
天璋院篤姫と皇女和宮