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テーマ:政治について(19784)
カテゴリ:格差社会
格差には機会の格差と結果の格差とがある。
いいかえれば機会の平等と結果の平等ということになる。 どうも世の中をみてみると機会の平等を云々する議論の方が多い。 中には機会の平等は保障すべきだが結果の平等は問題でないかのような極論もある。 本当にそうなのだろうか。 ※ 今、起きていることはとてつもない結果の不平等の進行である。 もちろん今の貧困者の中には最初から機会も平等ではなかった人も多い。 しかしそうでない人も相当数いるのではないか。 そしてそんな中には、今のところは余裕のある親の扶養や庇護を受けているが、やがては貧困者として街に放り出されてくる人もいる。 機会の平等というと、普通は下から上にいく「機会」が平等にあることを想像するが、本当の意味の機会の平等とは上から下にいく「可能性」もまた平等であるという社会である。 そうした意味でまさに今の日本は機会の平等はかなり達成した社会であるといえる。 さて、そんな中で、貧しく育って今も貧しいという人と豊かに育って今は貧しいという人とでは、不満や不幸の程度はどちらが大きいのだろうか。 おそらくは後者の方だろう。 今のところ、彼らは蔓延する自己責任論の中で自分を責めているばかりなのかもしれないけど、やがては社会に目を向け、社会の変革を求めるようになるのではないか。 そして市場原理主義的な競争一辺倒の方向に異議をとなえるようになるのではないか。 いや、もうそうした動きは起こり始めているのかもしれない。 ※ それにしても機会の格差と結果の格差の議論で、ともすれば機会の格差に目が向きがちなのはなぜだろうか。 たぶんそれは親の経済力で学歴や社会的地位が決まると思いたい人が多いからではないか。 親がもっと豊かであれば自分にはもっと高い学力や学歴が身についたはずだと。 本当は自分はもっと優秀で能力もあったはずだと。 自己評価というものは得てして客観的真実よりも高くなりがちだし、それもまた人間の性だろう。 でも人間には能力の差が厳然と存在する。 スポーツ選手の親にはスポーツマンが多いし、学力の優れた子供の親はやはり学力の優れた人が多い。 スポーツマンは高収入とはかぎらないが、学力の高い人は往々にして高収入の職についているので、東大生の親の年収が高いなんてあたりまえのことで機会の不平等の証明でもなんでもない。 そうではなく、人間はいくらスタートをおなじにしたところで能力や運による格差は必ずでるものだし、そうした結果の不平等をどう考えるかと言う議論こそが必要なのではないのだろうか。機会の平等は重要だが、機会の平等を保障すれば後は自己責任という議論もまた粗雑だと思うのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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