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先日キャスリン・ビグロー監督の「ゼロ・ダーク・サーティ」を見ました。ビグローは「ハート・ロッカー」でアカデミー賞かなにか取った女性監督で、かなりシリアスな映画を作るようです。
いずれも戦場・戦闘を舞台にした映画ですが、そのシーンのリアルさは圧巻です。ゼロダークサーティーの主役はCIAの分析官の女性。9.11以後のテロリスト追跡とその捕獲・殺害を任務しとしています。彼女は捕まえたテロリスト容疑者の拷問にも立ち会い、周囲の無理解にもめげずに、ひとり自分の推論でビンラディンを追いつめる任務を続けます。 パキスタンの隠れ家に潜むビンラディンを国境を超えてアメリカ軍が殺害する作戦は、外交問題になりかねず、ビンラディンの存在に確証が持てないCIA幹部は、作戦実行に躊躇します。が、彼女一人は、確信を持って実行を進言し、結局大統領は彼女の判断を支持し、現実の歴史が刻まれます。 この映画の物語りがどこまで真実か私はしらないけれど、女は闘うのが得意ではなく、戦争では無力な被害者にしかならない、という常識的な価値観に果敢に挑戦しているのがビグローでしょうか。こんな映画は日本人女性には作れないよなあ、というのが私の実感です。 この映画の主張と対比して面白いな、と思ったのが、昨夜ネット配信で見た映画「ヒトラー最後の八日間」です。映画はヒトラーの側近で秘書をしていた女性ユンゲの語りで始まります。「ヒトラーは怪物だった」「自分が秘書になったのは間違ってた」「何も知らなかった」と言う表現で、自分の過去を正当化しています。 確かにヒトラーは酷い事をやったし、彼に責任があるのは事実ですが、ヒトラーを作り出したのは民主主義を行使した国民です。当時のドイツ国民は、自分たちが何をしているのか、現実を直視する事もなく、ヒトラーの謳う妄想に夢を託します。ユンゲもその一人であり、一般市民以上に責任があるのは当然です。 けれど、彼女の中ではそれは正当化されるのでしょう。もちろん、自殺した将校も少なからずいましたが、それは責任をとってるのとは違います。仮に責任を感じての自殺としても自殺が正しい責任の取り方とも思えません。 ヒトラーが自殺したのも、責任を感じたからでも惨めになったからでもないでしょう。自身の夢が破れても自身の尊厳を守るために自殺したのであって、自身を正当化するために死んだに過ぎないのですから。 自身が何を見、何を考え、世界にどう関わるべきか冷静に孤独の中で判断していくのはとてつもない精神力が必要でしょう。女はそれができない、と考えるのか、女にもそれは可能だと考えるのか、ビグローは後者なのでしょう、きっと。 大衆に祭り上げられて自らを神格化する事で、自身の問題や現実の問題に直視する事から逃避する権力者ヒトラー。 そしてその妄想に夢を託して、他者の苦悩に目をつぶる人々。そこには力にすり寄る弱き男、その男にすりよる弱き女の姿が映し出されます。 結局、強い弱いと言うのは、性別には関わりなく、その人の意思の力、あるいは深い心のありようによるものなのかもしれません。残念ながら、今の日本の状況は、ドイツの戦後処理とはちがって、さらにあいまい無責任な状況が続いていて、力にすがりたい人たちばかりのように思えてなりません。 責任を取らずにきた人たちがまた、声高に危機をあおり、国民を煽動するのは昔も今も同じように思えます。その人たちの力に頼る弱き魂を見抜けず、他者の痛みにさらに無自覚になりつつある日本人・・・当事者にならないとその辺りも見えてこないのかなぁ。 そう言えば、韓国では女性大統領が出現しました。彼女の力はこれからわかるでしょうが、日本では女性首相も女性天皇もあり得ないんでしょうねえ。(別に女性天皇が出てきても天皇制がいいと思う私ではないけれどね。) そうそう、今夜は男ワークです。どんな集まりになるやら・・・楽しみ楽しみ・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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