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私のところには日々、不安や困難を抱えて困り果てている方が相談に来られます。その多くの方は医者や弁護士、行政や警察、など一般的な援助に関わる施設や援助者に既に関わっておられます。けれど、どこに行っても解決しなかった、楽になれない、との訴えをなされます。
もちろん、私はそれら既成の援助組織とは関わり無く援助していますし、医者や弁護士、警察のように状況に対してある程度の強制力をもって関われる訳でもありません。 多くの既成の援助は状況に対してそれをどう変えるか、と言うところに視点があります。お金、健康、人間関係、など様々な状況を改善する事で問題解決をはかり、困難から解放されるという理屈です。 それはそれで大切なのですが、その視点で解決できなかった場合はどうするのか・・・あれこれたらい回しされてもなんにも解決しなかった・・というように。 私は状況に囚われているクライアントが状況から一歩身をひいて洞察できるように聴き込んでいきます。状況が受け入れられないのはなぜか、なぜそういう状況になったのか、いわゆる認知や学習について本人が自分についてフォーカスできるようにカウンセリングを方向付けています。 人は変えられないけれど自分は変えられる、と言われるように自分の状況に対する見方やアプローチの仕方を変える事で、問題と思っていた事が問題ではなくなる事も多いもの。 パソコンの場合、同じアプリでなんどやってもうまく行かない場合は、新しいアプリをダウンロードし、インストールし直す事で問題が解決するように、人も同じく、新しい価値観を取り入れ、その価値観に基づいて自身の様々なプログラムを組み替えるということで、状況は変わってなくても問題が問題ではなくなるということも多いもの。 ただし、新しいアプリをインストールするにしても古いアプリが邪魔してうまく行かない事も多いので、フォーマット(初期化)してインストールします。この作業が人で言えば「アンラーン」でしょうか。 けれど、それまで自分を支えていた価値観や無意識に組み込まれた行動様式を捨て去るのはとても怖い事、ひとりでできるものではありません。新しいアプリを提供したり、フォーマットする際には別のパソコンなりデータなりが不可欠。同じく人についても、アンラーンし新しい自己概念を再構築するには、新しい価値観、多様な可能性を持つ援助者が不可欠。 不安に苛まれるクライアントの心に寄り添い、不安の根源について深い心の闇に降り立ち、新しい物語りに書き変えるための心の旅をともに歩む・・・そんな事をめざす私です。 そうそう、先日、カムイ伝然21巻を読了しました。白土三平が書きたかった事がよく伝わってきます。不条理に満ちあふれる歴史の前に、私たちは何をなし得るのか、果たしてその絶望を超えられるのかとの作者の問いかけでしょう。 ややもすれば、勧善懲悪の絶対的正義があって、その力が自分を救ってくれる、との楽観的な物語りを人々は欲します。水戸黄門や金さん、仕事人がロングヒットする理由です。 けれど、現実はそんなものではありません。残虐で理不尽な歴史が過去から連綿とくり返されています。そんな歴史の一断面である「今」この命にどう意味を与えるのか・・・目の前の状況の背後にある歴史に対して、いずれ無くなる自らの命をどう、意味付けていくのか・・・ どんな人生であっても、そこに意味を見いだす事は可能だけれど、それにはその事に気づかせともに時を重ね物語りを紡ぐ援助者も必要かもしれません。そんな援助者がたくさんいればいいのにな、と妄想する私。 そうそう、先日のシネマ「エリジウム」で主人公は自らの人生の意味を見いだし、それを他者に託す事ができました。同じ監督の「第九地区」でも同じテーマが語られていたように思います。自らの人生の意味は他者、あるいは世界との関わり無しに意味付けられないと・・・一人ではなく、ともに分かち合いながら生きているのだから お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013/10/03 12:43:38 PM
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