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先日、マイナーなシネマ「トランス」を見てきました。名画オークションの係員が盗難事件に巻き込まれて犯人に殴られ記憶を失ってしまうところから映画は始まります。
盗んだはずの名画が無くなっていたのを知った犯人たちはその係員から名画の行方を聞き出そうとするのですが・・・・結局拷問でも聞き出せないので、記憶回復のための催眠療法師に委ねる事になります。 そのセラピーで回復するのが真実の記憶なのか、セラピーで植え込まれた疑似記憶なのか、本人も映画の観客も判然としないまま、事態が進展していくのですが・・・・ 自分の真実を知っていく事がいかに残酷な事であるか・・・そういう映画は以前もありましたが、たしか「メメント」とか言ったかな、15分しか記憶が残らない傷害を持った男が、過去の記憶を取り戻そうとするのですが・・・ 私たちは過酷な体験をすると、記憶を隠蔽して、日常の心理機能を防衛する機能があります。病的な状況であればそれは乖離と言う状況や記憶喪失、ということになるし、病的でもなくても忘却という機能もあります。 けれど、それらの機能で無意識に隠蔽した記憶でも、似たような状況に遭遇するとフラッシュバックして心を混乱させてしまいます。 ですから、記憶を隠蔽するのではなく、記憶をよみがえらせ体験の新たな意味を付与し、人生の物語りの一ページに加えて痛みを感じなくて済むようにすることで、本質的な解決になります。 これが記憶回復療法の本質的な機能なんですが、隠蔽していた記憶が復活した時にその痛みを終わらせ新たな意味を付与する受け皿がないところだと、再受傷するという二次被害が起こったりもします。 また、本来体験していない疑似記憶を真実の記憶と思い込んで、不必要な受傷をしてしまうという被害も起こります。このあたりは「ジュディス・ハーマン」の記憶回復療法がいかに危険で有害なものだったかを解説した「危ない精神分析」なる著書に詳しく述べられています。 私たちの人格は体験と記憶の積み重ねで構成されています。過去の事実は変えられないと言う現実の中で、記憶を捨てる、あるいは隠蔽するという自然の防衛システムでは、人生をよりよいモノにできない場合も出てきます。 ここに求められるのが、体験を追体験し新たな意味付けによる再統合を行う事でしょうか。過去を穿り出すだけで、新たな意味付けができなかったり、逆により過酷な意味付けを付与しては、セラピーどころか暴力的支配になりかねません。 セラピストに求められるのがクライアントのどんな過酷な体験であれ、その体験を自己決定に基づいた愛や信頼、和解や共感に満ちた物語りの一ページに書き変えさせる事のできる能力です。 セラピスト自身が癒されていなかったり、問題を隠蔽していたり、愛や信頼に満たされていなかったりした場合、自身の問題をクライアントに投影し、クライアントを巻き込んで二次被害を与えてしまいかねません。 今のDV支援が必ずしも被害者が癒されるモノではない残念な事になっているのもそう言う事なんだろうと思います。セラピスト自身が自分の人生の総括を行い、自己一致できているかどうか・・・ですよね。 私?・・・私もほんといろいろありました。例の理不尽な訴訟に関しても、それを私の学びや成長の糧として、意味付けられていますから、今は特に損したとか考えたくもないとか言うことはなくて、いつでも誰にでも語れる大切なエピソードにできています。 世界をどう読みとくか・・・怒りと憎しみに囚われ、不信や妄想、裏切りで人生を物語るのはあまりに哀しいですし、クライアントにそんな世界から別の世界に至る道を提示できたらと思います。そのためにも、私は日々の体験を意味あるものとして積み重ね、記憶していきたいと思うこのごろ・・・シネマ「トランス」はそんな事を考えさせてくれましたとさ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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