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今日は覚せい剤で逮捕された清原さんの初公判でした。報道では彼は謝罪し、更生を誓ったとか。野球を引退して社会に不適応な自分の不安から逃れるために罪悪感を感じながらも止められなかった、というようなことを証言したようです。厚生施設に入って覚せい剤をやめ社会復帰するとも。
初犯だから執行猶予はつくにしても、いくら厳罰にしてもやめられないものは止められません。それが依存というもの。だから覚せい剤は怖いから絶対に手を出すな、という言説になるようです。 確かに、覚せい剤は依存性が強くやめるのは大変だというのもあるようですが、私は覚せい剤の使用体験はないので、どの程度止めづらいのか、実感としてはわかりません。それに私のクライアントで覚せい剤の使用体験はあって、逮捕されてもないけれど、止めている方も何人かおられます。 その方達は私を信頼してくれてるから、その体験を私に語ってくれたけれど、そんな体験はまず人に話すことはありませんし話せるものでもありません。ということは、逮捕されないけれど、使用体験がある人は結構どこにでもいるということだろうし、また逮捕されてもやめられない人もいるし、逮捕されなくても、いつかやめる人もいる、それはいろいろだろうというのが現実なところ。 やめる人とやめられない人と、どう違うのか、その違いをもたらす要因はいろいろあるだろうけれど、本人の意思の問題だけではないように思う私です。これは覚せい剤の話だけではなく、アルコールやら、タバコやら、ギャンブルやらも似たようなもので「依存」全般に言えることでしょう。刑罰は抑止にはなりえても離脱にはあまり役に立たないだろうし、自分の意思だけでは止めるのはとても難しい。私のアルコール依存も私の「意思」では止められませんでした。 そもそも、人はなぜ依存に陥るのでしょう。私は不安発作の恐怖から逃れるためでした。清原さんも不安から逃れるためでした。不安はないけれど、日々が面白くないとか、依存にハマってる時の快感が忘れられないとか・・・。 ということは、日常のネガティブな精神状況と依存にハマってる時のハイテンションな精神状況とその落差の大きさが、やめることの難しさの本質かもしれません。であれば、依存対象以外のもので日常の精神状況をハイにすればいいということになります。 私はどんな依存に対しても依存は良くないからやめましょうとは言いません。DVは犯罪だからやめなさいと言わないのも同じこと。本人もやめたいと思うけれど止められないのが依存なのですから。ではどうするのか、本人の意思に頼るのではなく、援助者が関わることで当事者本人がハイ、あるいはハピーになるような関わり方をすることです。具体的には、クライアントの言動、体験からセラピスト自身が心地よい、あるいは面白い、そんな物語を引きだことです。 クライアントをめぐる状況の多くはクライアントに対してネガティブな意味づけをしており、クライアント自身もその概念に縛られているが故の依存の必要性でしょうから。その囚われから解放されるための支援、セラピーがあれば依存から抜け出せるということ。もちろんそれは簡単ではありません。ですから、私は依存もいいんじやないと言いつつ、より実害の少ない依存に依存をシフトするよう助言もします。 最終的には自分自身やら自分の行為、スポーツやらアートに依存をシフトさせられたら、これはもう何の問題もないですよねえ。アルコールに酔わないとやれなかった昔の私、今は自分に酔ってるからアルコールは不要です。でもそんな私だから社会的には適応不全。清原さんも適応不全が不安なんだったら、私のところに来ればいいのにね。ダルクもいいけれど、社会適応なんかしなくていいよーって言ってもらえるのは私のとこだけじゃないかなー。 ブログに納得いただけたら、クリックお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016/05/18 12:10:20 AM
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