(「野球と其害毒」東京朝日新聞より) の続き。
■1911年(明治44年)8月29日から連載を開始した「野球と其害毒」。その第6回目(9月3日)は米国人某氏談。見出しは「日米大学の相違」。米国人某氏曰く、
主なる米国の大学では一方技術としての野球術の進歩熟練を企図していると同時に、一方選手の学業および品行の点には十分の注意を払っている。・・・選手の数も多いから日本のごとく少数の人々が三年も五年も休みなし。引き続き闘手として立つということがない。
多くの大学ではその所在町村において酒類の販売を禁じているから公然酒杯をあふつて醜態をあらわすようなことはない。しかして女に至っては別に正当なる両性交際の方法が開けているから、なにも好んで女学生の歓心を得んがために(※1)野球の選手になるような必要はない。
すみやかに早慶試合を復活せよ。(※2)ささたる感情に執着しているようではどこに遊戯家的(スポーツマンライク)なるところがあるか。こうして両校が相反目しているからいきおい商売人や軍艦チーム等の気品の低いものと試合する機会がふえてその悪風に感染するようになる。
◇関連記事「1911年、「野球害毒論」論争勃発」
(※1)
「女学生の歓心を得んがために」野球をしていた選手も少なくなかったらしい。ただほぼこの時代、学生たちの間では「鶏姦(男色)」も流行っていたようだ。以下、『百年前の私たち』(石原千秋著、講談社現代新書)が紹介していた古書物を「孫引き」します。
学生社会の一部は案外に女色を口にする者少く、あるいは女色を以て学生の意気を消耗せしむるものとして極力これを排除せんとする者あり、彼らがこのごとき見識あるは甚だ喜ぶべき現象なれども、しかも彼らの盲昧なる更に一層大なる罪悪を行いつつある也、美少年なる者即ちこれ也。東都にある学生の中にて比較的年長者と称せらるる者は常に年少にして美貌なる学生を捕え、人としてありまじき事を為す也、
(柳内蝦洲『東都と学生』新声社、明治34年9月)
(※2)
朝日新聞に「野球と其害毒」が連載されていた当時、早慶戦は中止の真っ最中だった。(1906年中止、1925年復活)。
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