(「野球と其害毒」東京朝日新聞より) の続き。
■1911年(明治44年)8月29日から連載を開始した「野球と其害毒」。その第5回目(9月2日)には、前回紹介した「攻玉社講師広田金吾氏」のほかにもう一人、早稲田大学講師の某氏がいた。その見出しは「早稲田大学のために惜む」。その早稲田大学講師某氏が曰く、
安部さん(※1)は本校の野球選手が皆真面目に教場へ出席し学科も相当にできるように思っているらしいが私の教えた実験によると大井、野々村、飛田(※2)、福永、山本、伊勢田などいう連中は、よくあれで運動場で機敏な動きをすると思うくらい学科にかけては遅鈍だ。輪講をあててもやらないし、英作文の宿題もやって来ず、たいてい教場で眠っている。(※3)・・・早稲田(※4)は既に卒業生もだいぶ出し、学校の基礎も固まって来たのだから学校側でも今少し真面目になって学校広告などは廃して実質の改善に主力を集注しなくてはならぬと思う云々。
■上記について、以下に補足します。 (※)印は「あま野球日記」が付記したもの。
(※1)
当時、早稲田大野球部の部長だった安部磯雄のこと。
(※2)
早稲田大野球部・第5代主将、後に監督を務めた飛田穂洲(忠順)のこと。
(※3)
この文章だけを読むと飛田らはそれなりのワルだったように聞こえる。では早稲田に限らず飛田ら以外の学生たちは、真面目に授業を受けていたのか? そのことを知る手掛かりを見つけた。以下、『百年前の私たち』(石原千秋著、講談社現代新書)が紹介していた古書物を「孫引き」します。
「甚しきは、講堂に出でても、なお居睡りするものあり、居睡りせずとも、欠伸するものあり。あきれ果てたる人と云うべし。・・・教師の講義を聞きながら居眠りをなすものあり、喫煙するものあり、唾を吐くものあり、高声を発する者あり、その無秩序なる殆ど言語に絶す」(大町桂月『学生訓』博文館、明治34年6月)。
どうやら当時も真面目な学生ばかりではなかったらしい。飛田らの授業中の居眠りなどはまだ可愛いことのようにも思えるが。
(※4)
東京朝日新聞が「野球と其害毒」を連載していた明治44年当時、早稲田は大学と称していたが(創立当初の名称はは東京専門学校)、実際に大学になったのは大正9年に大学令が発布されてから。明治44年当時は、大学ではなく専門学校という位置づけだった。
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