早稲田旧選手・河野安通志談(5)の続き。
■東京朝日新聞の「野球と其害毒」に対抗し、読売新聞は「野球問題演説会」を9月17日開催した(神田・日本青年館)。登壇したのは河野安通志をはじめ押川春浪、安部磯雄ら。観衆は、なんと1000人を集めた。
河野は「我腕を見よ」と題し、東京朝日の「野球と其害毒」のおかげで、これほどの人が集まったと皮肉から開始した。そして野球をやっていると右手ばかりが伸びるなどとバカな記事があったが、そんなことはない。そういって両袖を捲って聴衆に見せたという。
(参考:『熱血児 押川春浪』横田順弥著、三一書房刊)
■最後に河野のプロフィールについて。
(1)1885年(明治18年)生まれ。横浜商業、明治学院を経て、早稲田大学に入学。野球部では投手を務め、渡米遠征では26試合中24試合を連投し、鉄人河野と賞賛された花形選手。成績もよく、卒業後は横浜商業、早稲田大学の簿記、英語の講師を務めている。その後、日本最初のプロ野球チーム日本運動協会を結成。その後も一貫してプロ野球と関わり、その発展に寄与した。(引用:前出)
(2)1903年(明治36年)早稲田大学入学後、創設して3年目の野球部に入部、第1回早慶戦の先発に抜擢された。この試合は9-11で敗れるが、その後エースとして活躍した。1905年(明治38年)、史上初のアメリカ遠征では米国西海岸を転戦。各地の大学や軍隊のチームと26試合を行い、7勝19敗だったが、河野は24試合に登板、現地で「Iron Kouno(鉄人河野)」と呼ばれた。この遠征で、日本で初めてワインドアップ投法や緩急をつけた投球を習得したといわれる。竹久夢二はこの河野のワインドアップ投法に強く魅せられ、絵はがきや挿絵に何枚も河野の姿を描いているほか、処女画集である『夢二画集 春の巻』の前書きにも河野のことを記している。1920年(大正9年)、押川清、橋戸信らと共に、日本初のプロ野球チーム日本運動協会(芝浦協会)を創設した。
※その後、市岡忠男との対立が繰り広げられたエピソードも面白い。そのことはwikipediaに詳しい。(2)もwikipediaより引用。河野の妻・いゑは飛田穂洲の妹。
※河野安通志の項は今日で終了。写真は、若き日の河野安通志氏。(著作権フリー)
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