1960年秋、伝説の早慶6連戦(中)の続き。
■いまボクの手元には1回戦(1960年11月6日)のメンバー表がある。それを見ていて、後にプロ野球界で活躍した安藤統夫の名を見つけることができた。慶應義塾大の1番・ショートでこの試合に出場していた。
ボクは安藤が阪神の二塁手だった頃をわずかに憶えてる。打撃はまるで記憶にないけど、慶應ボーイらしい端正な顔立ちながら、地味にシブいプレーを見せてくれたように記憶している。
安藤統夫。土浦一高時代は木内幸男監督の指導を受け、甲子園出場を果たしている。
そして慶應大卒業後は1962年阪神に入団し、1984年に監督を辞するまでの間、阪神一筋に生きた。阪神入団に際しては、読売からも誘いの声があったがそれを断ったエピソードの持ち主でもある。川上哲治監督に会いに行き、「私は強い巨人に入るより、戦う側に回りたい」と断りを入れたという。 (※)
あまり関係ないけれど、1982年(昭和57年)8月31日に起きた横浜スタジアム審判集団暴行事件、当事者である阪神の監督は安藤だった。
■また現役時代のプレーをあまり憶えていないけれど、早稲田大の4番だった徳武定之の名前だけをボクは記憶している。
徳武定之。早稲田実から早稲田大に進学。早大卒業後は国鉄スワローズ(現・ヤクルト)に入団。現役はわずか9年間だったが、引退後、中日やロッテのコーチ、フロントを歴任した。尚、徳武の国鉄入団に際しては、読売から長嶋茂雄をショートに回すからと誘われたが、当時国鉄スワローズの監督で大学時代の長嶋の恩師である砂押邦信に「長嶋はショートはできない、読売に入団しても(徳武の)出番はないからうちに来なさい」と諭され当時弱小である国鉄に入団したという逸話がある。(※)
※印はwikipediaより引用した。
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