カテゴリ:時事&立腹
松尾貴史のちょっと違和感 志村けんさん、新型コロナで死去 心がない、お悔やみの言葉 毎日新聞 2020年4月5日02時35分 訃報に接したとき、「謹んでお悔やみを申し上げたいと思います」と言う人がいる。昔から、お悔やみの時に「~たいと思います」と言うことに違和感を覚える。なぜ「申し上げます」ではなく、ワンクッション置くのだろうか。さらには、最後に「~けれども」まで付ける人がいる。記号的に言っておけばいいだろうという気持ちが表れた印象を持ってしまうのだ。 東京都の小池百合子知事が、コメディアンの志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなったことについて記者から聞かれて、「お悔やみを申し上げたいと存じます」と前置きのように言ってから、エンターテイナーとして笑いを届けてくれたことに謝意を表した後、「最後にですねえ、悲しみとコロナウイルスの危険性についてですね、しっかりメッセージを皆さんに届けてくださったという、その功績も、最後の功績も大変大きいものがあると思っております」と言った。いや、言ってしまった。心がない、というのはこういうことを指すのだろう。 志村さんの死は、結果的には注意喚起につながったのかもしれないが、弔意として言うべきことかどうか少し考えればわかりそうなものだ。この人の人間性、優先順位はこんなところなのだろう。 オリンピック延期が決定した途端に、連日のように発言し、検査数と患者数も急激に増え始めたが、もっと早く簡単に検査ができるよう徹底していれば、首都ロックダウンうんぬんの話も出てこなかったかもしれない。 都知事の緊急記者会見は、なぜ「緊急」にしたのかわからない内容だった。いろんな業種(なぜかパチンコには触れない)をやり玉に挙げて注意喚起をしていたが、もっと早くから定例会見でやっていればよかったのではないか。「頑張っている感」を演出しているだけのように見えてしまう。そもそも、「3密」と呼ばれる要素を、自ら新たに生み出そうとしているようにしか思えない。 記者から「夜出歩くなとかわかるんですが、それを聞くために夜集まった私たちは何なんですか」と指摘され、「状況は刻々と変化しております」と開き直っていた。しかし、「どう変化しているか」という流れを示さずに、「緊急」と銘打って記者を集めるのは不可思議な話ではないか。刻々と変化するなら、それこそ定例にして、それもネットを通じて、大勢で集まらなくとも発表することはできるだろう。その配慮を言行一致で見せて手本となるという発想すらないのだろうか。それではテレビに映してもらえないからだめなのか。 菅義偉官房長官は、不要不急の外出や式典の自粛を要請していたのに、自身は大勢を引き連れ沖縄を訪問して、那覇空港の第2滑走路供用開始式典に参加し祝辞を述べ、会合に出席し、マスク無しで土産物店のスタッフと会話を交わしつつ握手をしていた。自分は例外なのか。もしくは、沖縄は例外なのか。 安倍晋三総理大臣の妻、昭恵氏が個人的に「桜を見る会」をやっていたとされる写真が出回り、安倍氏が「レストランの敷地内だ」と不思議な釈明をしていたが、そんなことはどうでもいい。国民に花見などの自粛を要請しつつ、それを誘発するような行動を取ることが問題なのではないか。 そして安倍氏自身も、卒業式などを自粛するように呼びかけておきながらも、自身は防衛大学校の卒業式に出席して訓示を述べ、憲法9条を改変する意志を披歴するという憲法99条違反の内容をしゃべっていた。 国民と、「偉い人たち」は別物で、そして範を示す必要などないと思っているのだろうか。そして、補償の話は一向にまとまらない。「ください」ではなく「返せ」という話なのに。(放送タレント、イラストも) 【毎日新聞;元記事はこちら】 ◆今週もこのコラム、まさにその通り!です。アベ氏も小池氏も官房長官もそりゃ一生懸命にこの感染症に対応しているんだろうけれど(昭恵夫人だけは論外だ)、“ちょっと違和感”を感じざるを得ない行動もとっている。そこに品性が現れちゃっているということだ。心がないお悔みとはよくぞ言ってくださった。アベ氏が国会で繰り返し読む答弁書の赤木さんへのお悔みの言葉もまるっきり心がないと感じてました。政治家は自分と庶民を区別しておそらく国民を下に見ているんだね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.04.05 20:32:44
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