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カテゴリ:今日の一言
今日は少し、こ難しい話になります。 あるブログを読むと、ある条件を満たした人間の健常な脳でしか理解できない真理は本物ではないのです、とあった。 そんな私でも判ることがあります。 他者とも、自分自身とも争い続けて、ロジカルに頭の整理をしていくにつれて、わかってくるもの。 なぜ、自分と違う考えの人が存在してはいけないと思う必要があるのでしょうか。 それは違う考えを認めることで、自分自身にとって都合が悪いということなのではないのでしょうか。 もちろん、私にとって都合が悪いから、あなたは間違っています、悪い人です、などと言われて、はいそうですか、私が悪うございました、などと思える人たちはいらっしゃらないと思います。 だからこそ、話し合う必要があるのです。 野生の動物であれば、食うか食われるかの殺し合いになるのでしょうが、それも、言葉などで理論的に話し合うことが出来ないから、そういう手段に出ているだけ、ということなのではないのでしょうか。 その為に、いろいろなことを学んでいるわけです。
せっかく、話し合う手段である言葉というものが存在しているのに、それを使わない手はないと私は考えております。 人と話し合う上で、どちらが正しいか正しくないかを争ったところで、終わりはないばかりか、行き着く先は殺戮になることは明白だと思われます。 だからこそ、自分と違う価値観や考え方を持っている方と遭遇した際にはまず、相手との相異を認めたうえで議論に入らないと議論にすらならないのではないのでしょうか。 議論をするうえでの目的は、白黒つけることではなく、相手の考えを認め、自分の考えを認めることから始まり、お互いをわかりあった上で、できること、できないことを明確にしていくことなのだと思われます。 違いを認めるという行為は、相手の存在を認めることに繋がっていることなのだと思います。 結果がどうであれ、他者に存在を認めてもらうことでしか、自分の存在すら確認することができない私たち。 自分自身で自分の存在が実感として確認できることに対して、感謝を表さない人はいるのでしょうか。 感謝が真理であるかどうか、真理とはいったいなんなのかについては、正直なところ私はさほど興味を持っておりませんが、感謝なしに共存や、和平、身近なものでいえば家族の営みや育児などといった行為は立行かなくなるのではないのでしょうか。
あって当たり前のものは何一つないということ。
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