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カテゴリ:旅行
6月21日(木) 今日も朝から雨模様です。 しかし、梅雨前線は南下し次第に回復傾向にあるようです。 日記は加藤洲十二橋巡りの続きです。 十二橋を潜り終え、このコーナーを右折すると、次第に両岸が開け川幅も広がってきます。 この橋は紫陽花橋。 十二橋ではありません。 車も通れるしっかりとした造りです。 十二橋は全て木造で歩行者専用です。 紫陽花橋というだけありまして、 橋の前後から両岸には紫陽花のお花が増えてきました。 額紫陽花のお花が水面に映り、水郷地帯らしい風情があります。 この赤色には感嘆の声が上がりました。 更に進むと、広い与田浦に出てきます。 まるで大河のようですが、与田浦は今では湖沼の扱いです。 水郷十六島(じゅうろくしま)の中央に位置します。 この水郷十六島とは何でしょうか この一帯、大昔は香取の海と呼ばれていました。 縄文時代には海水面が上昇し、霞ヶ浦、北浦も含め大きな内湾であったのですよ。 JR常磐線には霞ヶ浦からかなり離れた場所に、荒川沖や高浜といった駅があります。 以前は海岸線であったことを示唆する地名ですね。 香取神宮や鹿島神宮は高台にあります。 嘗ては、もう少し水際に近かったのではないかと想像できます。 最大時には、我が町近辺まで含まれていたとか。 手賀沼の自然堤防部分を歩きますと、今でも貝殻が散乱している場所があります。 その後、海水の水位が下がり徐々に後退し、 また、鬼怒川や小貝川などが運ぶ土砂が堆積して中州ができ始めました。 時は下り戦国時代の末期、1590年に後北条氏が滅びた後、 徳川家康公は、太閤秀吉によって関東に移封されます。 そして関八州の大規模な改造事業に乗り出しました。 東京湾に流れ込んでいた利根川を、 人工の河川によって鬼怒川と結び、銚子へと流れを変えます。 これは関東平野の新田開発と東北との水運を拓く、超ビッグプロジェクトだったのです。 この利根川東遷事業によっても、大量の土砂が河口方面に押し流されてきます。 そして、この一帯も関東平野大改造のプロジェクトに組み込まれました。 移封後まもなく中州を干拓し新田開発を進め、 その後約半世紀の年月を経て、16の新田集落ができていったそうです。 これで宿題にしていた、加藤洲の成立の歴史が少し整理できました。 こうしてできた十六の島を総称して、十六島と呼んだのです。 また新島(しんしま)とも呼ばれるそうです。 そして、十六島の真ん中に取り残された水域が与田浦というわけです。 JR鹿島線の鉄橋です。 利根川本流に架かっています。 右手方向が潮来駅を経て鹿島サッカースタジアム駅までつながります。 左手方向は成田線の香取駅。 我が家からはJRに乗って来る手もありますが、乗り換えが2回あり少々面倒です。 県道101号線の橋。 行きに渡ってきました。 何だか不思議な感覚です。 先には水郷佐原あやめパークが見えてきました。 こちらもあやめ祭りを開催中。 入園料は大人800円。 あやめパークでは、 江戸・肥後・伊勢系などの花菖蒲が、400品種150万本も咲き乱れるようです。 一方、水郷潮来あやめ園では、 約500種類・100万株の花菖蒲が栽培されています。 おばちゃま船頭さんは、 潮来のあやめ公園は出入り自由だと、盛んに宣伝していました。 潮来市はなかなか剛毅ですな。 う~ん、茨城県の勝ちという感じです。 船を降りたら行ってみることにしましょう。 楽しみですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.06.23 04:53:44
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