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アウトドア親爺の徒然日記

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2018.06.21
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カテゴリ:旅行


6月21日(木)

今日も朝から雨模様です。
しかし、梅雨前線は南下し次第に回復傾向にあるようです。


日記は加藤洲十二橋巡りの続きです。
十二橋を潜り終え、このコーナーを右折すると、次第に両岸が開け川幅も広がってきます。





この橋は紫陽花橋。 十二橋ではありません。
車も通れるしっかりとした造りです。 十二橋は全て木造で歩行者専用です。





紫陽花橋というだけありまして、
橋の前後から両岸には紫陽花のお花が増えてきました。

額紫陽花のお花が水面に映り、水郷地帯らしい風情があります。





この赤色には感嘆の声が上がりました。





更に進むと、広い与田浦に出てきます。





まるで大河のようですが、与田浦は今では湖沼の扱いです。
水郷十六島(じゅうろくしま)の中央に位置します。

この水郷十六島とは何でしょうか?

この一帯、大昔は香取の海と呼ばれていました。
縄文時代には海水面が上昇し、霞ヶ浦、北浦も含め大きな内湾であったのですよ。

JR常磐線には霞ヶ浦からかなり離れた場所に、荒川沖や高浜といった駅があります。
以前は海岸線であったことを示唆する地名ですね。

香取神宮や鹿島神宮は高台にあります。
嘗ては、もう少し水際に近かったのではないかと想像できます。

最大時には、我が町近辺まで含まれていたとか。
手賀沼の自然堤防部分を歩きますと、今でも貝殻が散乱している場所があります。

その後、海水の水位が下がり徐々に後退し、
また、鬼怒川や小貝川などが運ぶ土砂が堆積して中州ができ始めました。

時は下り戦国時代の末期、1590年に後北条氏が滅びた後、
徳川家康公は、太閤秀吉によって関東に移封されます。
そして関八州の大規模な改造事業に乗り出しました。

東京湾に流れ込んでいた利根川を、
人工の河川によって鬼怒川と結び、銚子へと流れを変えます。
これは関東平野の新田開発と東北との水運を拓く、超ビッグプロジェクトだったのです。

この利根川東遷事業によっても、大量の土砂が河口方面に押し流されてきます。
そして、この一帯も関東平野大改造のプロジェクトに組み込まれました。

移封後まもなく中州を干拓し新田開発を進め、
その後約半世紀の年月を経て、16の新田集落ができていったそうです。

これで宿題にしていた、加藤洲の成立の歴史が少し整理できました。

こうしてできた十六の島を総称して、十六島と呼んだのです。
また新島(しんしま)とも呼ばれるそうです。

そして、十六島の真ん中に取り残された水域が与田浦というわけです。





JR鹿島線の鉄橋です。  利根川本流に架かっています。

右手方向が潮来駅を経て鹿島サッカースタジアム駅までつながります。
左手方向は成田線の香取駅。
我が家からはJRに乗って来る手もありますが、乗り換えが2回あり少々面倒です。





県道101号線の橋。
行きに渡ってきました。  何だか不思議な感覚です。





先には水郷佐原あやめパークが見えてきました。
こちらもあやめ祭りを開催中。  入園料は大人800円。




あやめパークでは、
江戸・肥後・伊勢系などの花菖蒲が、400品種150万本も咲き乱れるようです。

一方、水郷潮来あやめ園では、
約500種類・100万株の花菖蒲が栽培されています。

おばちゃま船頭さんは、
潮来のあやめ公園は出入り自由だと、盛んに宣伝していました。

潮来市はなかなか剛毅ですな。
う~ん、茨城県の勝ちという感じです。

船を降りたら行ってみることにしましょう。
楽しみですね。








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Last updated  2018.06.23 04:53:44
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