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カテゴリ:旅行記
長い石畳を息を切らして上がり やっと山頂に到着しました。 向こうの方に何やら書いてありますので 近づいてみましょう。 読めますでしょうか? 明智城の記 「美濃国諸旧記」によると 土岐頼兼が1342年にこの地に城を築き、 以降二百年にわたって明智氏の居城であったとされる。 (中略) 同書によると、明智城は1556年斎藤義龍に攻略され、 明智氏は落城と共に滅んだとされる。 一族のうち、明智光秀は一門の再起を期して ここから脱出、諸国流浪後、 織田信長に仕えてその重鎮となるなど、 天賦の才を発揮した。 明智光秀は本能寺の変において 主の信長を討ったことにより 長く逆臣の代名詞とされてきた。 しかし、近年においては 優れた政治手腕と軍事能力で 織田政権を支えた武将として その人物像の再評価が進んでいる。 ・・・・・・・と書かれています。 こちらは明智城址の碑です。 説明をご覧ください。 わかりにくいですが、 十兵衛坂と書いてあります。 見晴らし台が作ってありました。 雪をかぶった山は御嶽山?(それとも白山?) 今年は暖冬で山には雪が少ないそうですが 向こうの方に雪山が見えました。 ↓ 明智荘の展望です。 読みながら思わず頬が緩みましたが、 十兵衛坂を下りずに 新しくできた坂を 気を緩めずに降りることにしました。 遊歩道の感覚で楽に下りることができました。 水の手跡は 「山城として戦う、立てこもる時に 水を調達する重要な所です。 両方の山腹に曲輪があり 水の手を守れるようになっています。」 と説明されています。 二重の竪堀(たてぼり)は 「山頂の曲輪に敵が山腹を迂回して 侵入できないように、斜面に縦方向に掘った堀の事。 ここでは竪堀が二重に彫られていて曲輪を 堅固に守っています。」と説明されています。 搦手跡(からめてあと) 明智光秀は謎の多い人物です。 大河ドラマが始まった途端、 岐阜県内でも我が市が光秀の生誕地であると 名乗りを上げた所が4カ所も出てきました。 大垣市、山県市、恵那市、可児市です。 産湯の井戸や明智城跡も あちらにもこちらにもあるそうです。 どこが本当なのかは謎です。 この地(可児市)に住む方で古文書を 保存されている方がいらっしゃって、 「明智荘を見つめる会」の方々が 山の中の足元の悪い所を整備して 明智城址を保存しようと 力を入れてらっしゃいます。 もう1回だけ続きますので お付き合いください。 (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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